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    ネッド・ケリーとは?オーストラリアで最も有名なブッシュレンジャー

    黒い鉄のヘルメットと鎧。オーストラリアの歴史に詳しくなくても、この独特な姿を一度は見たことがある人もいるかもしれません。

    この鎧を着て警察と銃撃戦を繰り広げた人物が、ネッド・ケリー(Ned Kelly)です。

    19世紀後半のビクトリア植民地で活動したブッシュレンジャーで、銀行強盗を行い、警察官3人を死亡させ、最後はグレンローワンで警察と対峙。1880年、わずか25歳で処刑されました。

    これだけを聞けば、単なる犯罪者の話に思えます。

    ところがネッド・ケリーは、死後140年以上が過ぎた現在もオーストラリアで語られ続けています。映画、小説、絵画、歌の題材となり、その鎧はメルボルンを代表する歴史資料のひとつになりました。

    彼を権力に抵抗した人物として見る人がいる一方、3人の警察官を死亡させた強盗犯として見る人もいます。この評価の分かれ方こそ、ネッド・ケリーという人物を理解するうえで重要です。

    ネッド・ケリーって、オーストラリア版のロビン・フッドみたいな人ですか?
    そう紹介されることもありますが、それだけでは実像が見えません。貧しい移民家庭と警察の対立という背景がある一方、実際に銀行強盗や殺人が起きています。英雄か悪党かを先に決めず、何が起きたのかを見るほうが面白い人物です。

    この記事では、ネッド・ケリーの生い立ちからケリー・ギャング結成、ストリンギーバーク・クリーク事件、ジェリルデリー・レター、鉄製の鎧、グレンローワンでの最後の戦い、処刑、そして現在訪れることができる関連史跡まで紹介します。

    目次:ネッド・ケリーとは?(クリックで開閉)




    ネッド・ケリーとは?

    ネッド・ケリーの本名はエドワード・ケリー(Edward Kelly)。1855年頃、現在のビクトリア州北部にあるビヴァリッジ(Beveridge)で生まれました。

    オーストラリアで最もよく知られたブッシュレンジャー(bushranger)のひとりで、弟のダン・ケリー(Dan Kelly)、ジョー・バーン(Joe Byrne)、スティーブ・ハート(Steve Hart)とともに「ケリー・ギャング」を結成しました。

    1878年から1880年にかけて警察の追跡を逃れながら、銀行強盗、人質拘束などを繰り返します。

    1880年6月、グレンローワン(Glenrowan)で警察と最後の銃撃戦を行い、ネッドだけが生きて逮捕されました。

    同年11月11日、メルボルンで絞首刑となりました。25歳でした。

    そもそもブッシュレンジャーとは?

    オーストラリア史でよく登場する「ブッシュレンジャー」は、日本語へ一言で訳しにくい言葉です。

    もともとは、流刑植民地から脱走し、人の少ない森林地帯、つまり「ブッシュ」に潜伏して生き延びた逃亡囚などを指しました。

    19世紀になると意味が広がり、ブッシュを拠点に強盗や馬泥棒などを行う武装した無法者を指すようになります。

    アメリカ西部の「アウトロー」と重なる部分がありますが、オーストラリア独特の植民地社会や流刑制度から生まれた存在です。

    ネッド・ケリーが活動した1870年代末は、ブッシュレンジャーの時代としてはかなり後期にあたります。

    ネッド・ケリーの生い立ち

    ネッドは貧しいアイルランド系移民家庭に生まれました。

    父ジョン・ケリーと母エレンの間には8人の子供が生まれ、ネッドは長男でした。

    一家は決して裕福ではなく、植民地社会の周縁で農業や家畜に関わりながら暮らしていました。

    後のネッド・ケリーを理解するうえで重要なのが、父親の経歴です。

    父親も流刑囚だった

    父ジョン・「レッド」・ケリー(John “Red” Kelly)はアイルランドのティペラリー出身でした。

    1841年、豚2頭を盗んだ罪で7年間の流刑判決を受け、翌1842年にヴァン・ディーメンズ・ランド、現在のタスマニアへ送られました。

    1848年に刑期を終えた後、ポート・フィリップ地区へ移住し、後にエレン・クインと結婚します。

    つまりネッド・ケリーは、前の記事で紹介したイギリスのオーストラリア流刑制度の次の世代に生まれた人物でもあります。

    流刑囚の息子が、後に植民地政府から「アウトロー」として追われる。この背景も、ケリー物語がオーストラリア史の中で特別な位置を占める理由のひとつです。

    幼少期を過ごしたアヴェネル

    ケリー一家はその後、メルボルン北方のアヴェネル(Avenel)へ移りました。

    ネッドはここで学校にも通っています。

    少年時代のネッドには、後の「無法者」という姿からは想像しにくい逸話もあります。

    10歳前後の頃、川で溺れていた年下の少年を助け、その家族から感謝の印として緑色の絹のサッシュを贈られたという話です。

    このサッシュは後年、グレンローワンで負傷して捕らえられたネッドが鎧の下に身につけていたことで知られています。

    父の死とケリー一家の北東部移住

    父レッド・ケリーは1866年に死亡しました。

    まだ少年だったネッドと家族は経済的に厳しい状況に置かれ、母エレンは子供たちを連れてビクトリア北東部のイレブン・マイル・クリーク、グレタ(Greta)とグレンローワンの間の地域へ移ります。

    この一帯は、その後のケリー物語の中心となる場所です。

    現在でもグレタ、ベナラ(Benalla)、ビーチワース(Beechworth)、マンスフィールド(Mansfield)、グレンローワンなどには、ケリー一家や警察追跡に関係した場所が残っています。

    少年時代から警察と関わるようになる

    10代になると、ネッドは警察とたびたび関わるようになります。

    1869年には暴行の疑いで逮捕されましたが、この件は最終的に不起訴となりました。

    翌年には有名なブッシュレンジャー、ハリー・パワー(Harry Power)の仲間ではないかと疑われ、一時拘束されます。

    その後は有罪判決を受ける事件もあり、盗難馬と知りながら馬を受け取った罪では3年間服役しました。

    1874年に出所した後、一時期は木材伐採などの仕事をしていますが、やがて再び馬泥棒などに関わるようになります。

    アイルランド系移民と警察の対立

    ネッド・ケリーの物語を複雑にしているのが、当時のビクトリア植民地の社会環境です。

    ケリー家は貧しいアイルランド系カトリック家庭でした。

    ネッド自身は後に、警察が自分たち一家を不当に狙い、貧しい農民やアイルランド系住民が不公平な扱いを受けていたと主張しています。

    一方、ケリー家や周辺の人物が馬・牛泥棒との関係を警察から疑われていたことも記録されています。

    そのため、「警察による迫害だけが原因だった」とする説明も、「単なる犯罪一家だった」とする説明も、どちらも話を単純化しすぎています。

    この対立を本人側の視点から知る重要な資料が、後に紹介するジェリルデリー・レターです。

    運命を変えたフィッツパトリック事件

    1878年4月、ケリー一家の家を訪れた警察官アレクサンダー・フィッツパトリック(Alexander Fitzpatrick)が負傷する事件が起きました。

    フィッツパトリックは、ネッド・ケリーに撃たれたと証言しました。

    しかしネッドは、自分はその場にいなかったと一貫して主張しています。

    後に警察官3人が、ネッド本人から事件への関与を認める発言を聞いたと証言しており、事件の正確な経緯は現在も決着していません。

    事件後、弟ダンは逃亡。母エレンらは逮捕され、実刑判決を受けました。

    ネッドとダンには逮捕状が出され、2人は森林地帯へ逃げ込みます。

    ケリー・ギャングの4人

    逃亡中のネッドとダンに、友人のジョー・バーンとスティーブ・ハートが加わりました。

    人物 役割・特徴
    ネッド・ケリー ギャングの中心人物
    ダン・ケリー ネッドの弟
    ジョー・バーン ネッドの親しい仲間。読み書きにも長けていた
    スティーブ・ハート 若い騎手として知られた仲間

    この4人が、後に「ケリー・ギャング」としてオーストラリア史に名を残します。

    ストリンギーバーク・クリークで警察官3人が死亡

    ケリー物語で最も重大な転換点となったのが、1878年10月26日のストリンギーバーク・クリーク(Stringybark Creek)事件です。

    ネッドとダンを捜索していた警察隊とケリー・ギャングが森林内で遭遇しました。

    銃撃の結果、警察官マイケル・ロニガン(Michael Lonigan)、マイケル・スキャンロン(Michael Scanlon)、トーマス・ケネディ(Thomas Kennedy)の3人が死亡。

    トーマス・マッキンタイア(Thomas McIntyre)巡査だけが脱出し、マンスフィールドへ戻りました。

    ネッドは後に警察側が先に自分たちを殺そうとしていたため自衛したと主張しましたが、3人の警察官が死亡した事実は、その後のケリー・ギャング追跡を大きく変えます。



    「アウトロー」に指定される

    事件後、ビクトリア植民地政府はケリー・ギャングを法律上の「アウトロー」として追跡しました。

    ネッド、ダン、ジョー・バーン、スティーブ・ハートにはそれぞれ懸賞金がかけられます。

    当初500ポンドだった1人あたりの懸賞金は、その後さらに引き上げられました。

    警察は北東部ビクトリアで大規模な捜索を続けましたが、地形を熟知していたギャングをなかなか捕らえることができませんでした。

    地元住民の中にケリー一家へ同情する人や、警察に情報を提供しない人がいたことも追跡を難しくした要因のひとつでした。

    ユーロア銀行強盗

    逃亡中の1878年12月、ケリー・ギャングはユーロア(Euroa)近郊の牧場を占拠しました。

    そこにいた人々を拘束した後、ネッドらはユーロアのナショナル・バンクへ向かい、現金や金など約2,000ポンドを奪いました。

    興味深いのは、人質を殺害せずに多数を拘束しながら強盗を行うという方法です。

    後のジェリルデリーでも似た手法が使われています。

    これが「一般人には危害を加えない義賊だった」という後世のイメージにつながった面もありますが、人々を武器で脅して拘束した強盗事件だったことに変わりはありません。

    ジェリルデリーを占拠して銀行強盗

    1879年2月、ギャングはビクトリア州境を越え、ニューサウスウェールズ州の小さな町ジェリルデリー(Jerilderie)へ入りました。

    警察官を拘束して警察署を占拠し、警察の制服まで着用。

    その後、ニューサウスウェールズ銀行を襲い、2,000ポンドを超える現金などを奪いました。

    周辺の住民数十人もホテルへ集められ、事実上ギャングが町を一時的に掌握した状態になりました。

    しかしネッドには、銀行強盗以外にもうひとつ目的がありました。

    8,000語を超えるジェリルデリー・レター

    ネッドは、自分の主張を新聞などを通して公表したいと考えていました。

    そこでジョー・バーンに口述筆記させたのがジェリルデリー・レター(Jerilderie Letter)です。

    56ページ、8,000語を超える長大な文書で、ケリー一家と警察の関係、フィッツパトリック事件、ストリンギーバーク・クリークでの警察官死亡事件などについて、ネッド自身の立場から説明しています。

    文章には怒り、恨み、脅迫的な表現も多く含まれています。

    そのため単純な「政治宣言」と考えるより、ネッド・ケリー本人が自分の行動をどう正当化しようとしたのかを知る一次資料として読むのが適切でしょう。

    オリジナルのジェリルデリー・レターは現在、ビクトリア州立図書館(State Library Victoria)が所蔵しています。

    なぜネッド・ケリーを支持する人がいた?

    殺人と銀行強盗を行った人物でありながら、なぜネッドに支持者がいたのでしょうか。

    背景には当時の土地制度や社会階層、警察への不信、アイルランド系カトリック住民とイギリス系支配層との緊張など、複数の要素がありました。

    小規模農民の中には、警察や大地主側よりケリー一家へ同情的な人もいました。

    またネッド自身がジェリルデリー・レターなどで「自分たちは不当に扱われている」という物語を積極的に発信したことも、後のイメージ形成に影響しています。

    実際、死刑判決後には助命を求める大規模な運動も起こりました。

    一方で、ストリンギーバーク・クリークで死亡した3人の警察官や、その家族の立場から見れば、まったく異なる歴史になります。

    ネッド・ケリーが現在まで議論されるのは、こうした複数の視点が同時に存在するからです。

    なぜ鉄の鎧を作った?

    ネッド・ケリーと聞いて真っ先に思い浮かぶのが、頭部をすっぽり覆う鉄製の鎧です。

    実は鎧を持っていたのはネッドだけではありません。

    ネッド、ダン、ジョー、スティーブの4人全員が、それぞれ鉄製の鎧を用意していました。

    鎧は農業機械に使われる厚い鉄板などから作られています。

    誰がどこで製造したのかについてはさまざまな説がありますが、現在も確定していません。

    銃弾から胴体と頭部を守り、警察との正面からの銃撃戦に耐えることが目的でした。

    鎧の重さは約44キロ

    ビクトリア州立図書館が所蔵するネッドの鎧は、鉄製で重さ約44キロ。

    ヘルメット、胸当て、背中の板、肩部分などで構成されています。

    実際に警察の銃弾は鎧へ何発も当たりましたが、厚い鉄板によって致命傷を免れています。

    ただし大きな弱点がありました。

    脚が完全に露出していたのです。

    しかも40キロを超える鉄を身につければ動きは鈍くなり、視界も狭くなります。

    最終的にはこの弱点を警察に狙われ、ネッドは脚を撃たれて倒れました。

    グレンローワンで計画した列車脱線

    1880年6月、長い逃亡生活を続けていたケリー・ギャングは最後の大きな行動に出ます。

    ジョー・バーンは6月27日、警察へ情報を提供していた旧友アーロン・シェリット(Aaron Sherritt)を殺害しました。

    ネッドたちは、この知らせを受けた警察がメルボルン方面から列車で北上すると予想。

    グレンローワン付近の鉄道線路を外し、警察官を乗せた特別列車を脱線させる計画を立てました。

    さらにアン・ジョーンズの宿屋を占拠し、周辺住民らを人質として集めます。

    この列車脱線計画が成功していれば、多数の死者が出た可能性もありました。

    計画を阻止したトーマス・カーナウ

    ケリー・ギャングは住民を宿屋に拘束しましたが、教師トーマス・カーナウ(Thomas Curnow)とその家族らが外へ出ることを許されました。

    カーナウは線路が外されていることを知っていました。

    そこで列車が近づくと、赤い布などを使って運転士へ危険を知らせます。

    列車は停止し、脱線計画は失敗しました。

    警察はグレンローワンへ到着し、宿屋を包囲します。

    ここからケリー・ギャング最後の戦いが始まりました。

    1880年、グレンローワン最後の戦い

    1880年6月28日未明、グレンローワンの宿屋周辺で警察とケリー・ギャングの銃撃戦が始まりました。

    ジョー・バーンは銃撃を受けて死亡。

    ダン・ケリーとスティーブ・ハートは宿屋に残り、最終的に建物が火に包まれた後、遺体で発見されました。

    宿屋には多数の人質がいたため、銃撃戦では一般人にも犠牲者が出ています。

    ケリー・ギャングだけが危険にさらされていたわけではなかったことも、この事件を見るうえでは忘れてはいけません。



    鎧を着たネッド・ケリーが霧の中から現れる

    グレンローワンで最も有名な場面は、夜明け近くに起きました。

    一度宿屋周辺から離れていたネッドが、鉄の鎧を身につけたまま警察の前へ姿を現したのです。

    当時の警察官にとって、銃弾を受けても倒れない鉄の人間が薄暗い中を歩いてくる光景は、見たことのないものでした。

    警察は何度も発砲しましたが、胴体への銃弾の多くは鎧に阻まれました。

    しかし鎧に覆われていない脚を撃たれ、ネッドは倒れて捕らえられます。

    ケリー・ギャング4人のうち、生きてグレンローワンを出たのはネッドだけでした。

    メルボルンでの裁判

    負傷したネッドは治療を受けた後、裁判にかけられました。

    1880年10月28日から29日にかけてメルボルンで行われた裁判では、ストリンギーバーク・クリークで警察官トーマス・ロニガンを殺害した罪が審理されます。

    陪審は有罪評決を出しました。

    裁判官はレッドモンド・バリー(Redmond Barry)。ネッドに死刑判決を言い渡します。

    判決後には助命を求める請願運動が行われましたが、死刑は変更されませんでした。

    25歳で処刑

    1880年11月11日、ネッド・ケリーはメルボルンの刑務所で絞首刑となりました。

    現在のオールド・メルボルン・ジェイル(Old Melbourne Gaol)です。

    年齢は25歳でした。

    2年ほど前まではビクトリア北東部の若者だった人物が、警察官殺害、銀行強盗、史上最大級の捜索、鉄の鎧を使った銃撃戦を経て、植民地で最も有名な囚人のひとりとして処刑されました。

    しかしネッド・ケリーの物語は、ここで終わりませんでした。

    むしろ彼が伝説的な人物になったのは、死後のことです。

    「サッチ・イズ・ライフ」は本当に最後の言葉?

    ネッド・ケリーの最後の言葉として非常に有名なのが、「Such is life(人生とはそういうものだ)」です。

    オーストラリアではネッドを象徴する言葉として、土産物やTシャツなどにも使われています。

    ところが、ネッドが処刑直前にはっきり「Such is life」と言ったことを裏付ける同時代の確実な記録はありません。

    オーストラリア人名辞典では、処刑時の言葉として記録された別の発言が、後の新聞記事などを通して「Such is life」という形で伝えられるようになったと説明されています。

    つまり有名な言葉ではあるものの、「確実な最後の言葉」と断定するのは避けたほうがよいでしょう。

    ネッド・ケリーには、こうした「史実」と「後から生まれた伝説」が混ざったエピソードが数多くあります。

    なぜ今も有名なのか

    ネッド・ケリーが現在まで語り継がれている理由は、単に銀行強盗として有名だったからではありません。

    鉄の鎧という強烈な見た目、若くして処刑された人生、自分の主張を長文で残したこと、警察と植民地政府への抵抗、アイルランド系移民という背景など、物語性の強い要素が重なっています。

    さらに事件当時から新聞報道が盛んで、写真も残りました。

    死後には小説、演劇、映画、絵画などによって繰り返し物語が作り直されます。

    その結果、歴史上のエドワード・ケリーと、文化の中でつくられた「ネッド・ケリー像」が少しずつ分かれていきました。

    映画・文学・美術に残るネッド・ケリー

    ネッド・ケリーは、オーストラリアの芸術にも大きな影響を与えました。

    1906年にはケリー・ギャングを題材にした映画「ザ・ストーリー・オブ・ザ・ケリー・ギャング(The Story of the Kelly Gang)」が公開されています。

    20世紀には画家シドニー・ノーラン(Sidney Nolan)が、四角い黒いヘルメットをかぶったネッドを描いた一連の作品を制作。

    この姿は現在ではオーストラリア美術を代表するイメージのひとつになっています。

    さらに小説、映画、音楽でも何度も題材にされ、「実在したブッシュレンジャー」から「オーストラリア文化の象徴的キャラクター」へ変化していきました。

    旅行でネッド・ケリーの歴史をたどる

    ネッド・ケリーは19世紀の人物ですが、関連する場所は現在もかなり残っています。

    場所 見どころ
    ビクトリア州立図書館 ネッド本人が着用した本物の鎧、ジェリルデリー・レターなど
    オールド・メルボルン・ジェイル ネッドが収監され、処刑された刑務所
    グレンローワン 1880年の最後の銃撃戦と逮捕の舞台
    ベナラ ケリー一家や警察に関する多くの史跡が残る
    ビーチワース 裁判所や刑務所などケリー家に関係する歴史地区
    ストリンギーバーク・クリーク 1878年に警察官3人が死亡した事件の現場周辺

    初めてなら、メルボルン市内の2か所とグレンローワンを押さえるだけでも、かなり理解が深まります。

    ビクトリア州立図書館|本物の鎧を見る

    ネッド・ケリーに興味があるなら、最もおすすめしたい場所がメルボルン中心部のビクトリア州立図書館です。

    ここにはネッド本人が1880年のグレンローワンで着用した鎧が保存されています。

    レッドモンド・バリー・リーディング・ルーム(Redmond Barry Reading Room)で一般公開されており、2026年9月現在、展示予定は2028年12月31日まで。

    入場は無料です。

    図書館は通常毎日午前10時から午後6時まで開館しています。

    鎧だけでなく、ジェリルデリー・レター、ネッドのブーツ、ライフル、デスマスクなど、図書館は非常に充実したケリー関連資料を所蔵しています。

    メルボルン・セントラル駅の目の前なので、旅行者でも立ち寄りやすい場所です。

    オールド・メルボルン・ジェイル|処刑された場所

    ビクトリア州立図書館から徒歩圏内にあるのがオールド・メルボルン・ジェイルです。

    ネッドはグレンローワンで逮捕された後、ここへ収監され、1880年11月11日に処刑されました。

    現在は博物館として公開され、刑務所の独房や当時の刑罰制度について学ぶことができます。

    2026年9月現在、通常の開館時間は毎日午前10時から午後5時。クリスマスとグッド・フライデーは休館です。

    一般入場料は大人38豪ドル、子供5~15歳22豪ドル。

    週末の指定時間には「ネッド・ケリーズ・ラスト・スタンド(Ned Kelly’s Last Stand)」というガイドツアーも行われ、一般入場券に5豪ドル追加で参加できます。

    ビクトリア州立図書館とセットで訪れると、本物の鎧とネッドが最後の日々を過ごした場所を半日程度で見ることができます。

    グレンローワン|最後の戦いの現場

    ネッド・ケリーの歴史を現地でより深く知るなら、グレンローワンがおすすめです。

    メルボルンから北東へ車で約2時間30分。

    ここが1880年6月の最後の銃撃戦の舞台です。

    現在はネッド・ケリー・ディスカバリー・ハブ(Ned Kelly Discovery Hub)があり、映像、写真、証言などを使ってグレンローワン事件を複数の視点から紹介しています。

    2026年9月現在、午前10時から午後4時まで週7日営業。一部祝日を除きます。

    入場料は大人6豪ドル、コンセッション4豪ドル、17歳未満は無料です。

    施設の展望エリアからは実際の包囲戦が行われた地域を眺めることができます。

    周辺にはグレンローワン・ヘリテージ・シージ・ウォークが整備され、宿屋跡、鉄道路線、ネッドが捕らえられた場所など、事件に関係する地点を歩いて回れます。

    単なる「ネッド・ケリー観光地」ではなく、警察、人質、地元住民などを含めて事件全体を知る場所として整備されているのが現在のグレンローワンです。

    英雄か犯罪者かでは終わらないネッド・ケリー

    ネッド・ケリーについて調べ始めると、すぐに「英雄だったのか、悪党だったのか」という問いに行き着きます。

    しかし実際の歴史は、それほど単純ではありません。

    彼が貧しいアイルランド系家庭に生まれ、警察や植民地社会との激しい対立の中で育ったことは事実です。

    自分たち一家が不当に扱われたと考えていたことも、ジェリルデリー・レターからはっきり読み取れます。

    その一方で、3人の警察官がケリー・ギャングとの衝突で命を落とし、銀行強盗、人質拘束、列車脱線計画などが実際に行われました。

    そこを無視して「権力に立ち向かった英雄」とだけ説明することもできません。

    歴史上のネッド・ケリーと、後世につくられたネッド・ケリー伝説を分けて見ると、この人物がずっと興味深く見えてきます。

    そしてオーストラリア旅行者にとって面白いのは、その歴史が現在も実際の場所とつながっていることです。

    メルボルンでは本物の鎧を間近で見ることができ、数分歩けば処刑された刑務所へ行けます。

    さらに北へ向かえば、グレンローワンの最後の戦いの現場を自分の足で歩けます。

    鉄の鎧だけを知っていた人でも、こうした場所を訪れた後には、ネッド・ケリーが「オーストラリアで有名な昔の犯罪者」だけでは説明できない人物だったことがわかるはずです。

    よくある質問

    ネッド・ケリーとは何をした人ですか?

    19世紀後半のビクトリア植民地で活動したブッシュレンジャーです。弟ダンらとケリー・ギャングを結成し、銀行強盗や人質拘束などを行いました。1878年には警察官3人が死亡したストリンギーバーク・クリーク事件に関与し、1880年に逮捕、処刑されました。

    ネッド・ケリーは英雄だったのですか?

    評価は現在も分かれています。植民地当局や警察に抵抗した弱者側の人物として支持する見方がある一方、警察官3人の死亡、銀行強盗、人質拘束などに関与した犯罪者だったことも事実です。ビクトリア州立図書館なども、単純な英雄・悪党という二択ではなく、両方の視点を紹介しています。

    なぜネッド・ケリーは鉄の鎧を着ていたのですか?

    警察との銃撃戦で頭部や胴体を銃弾から守るためです。ケリー・ギャング4人全員が鉄製の鎧を用意しました。ネッドの鎧は約44キロありましたが、脚は守られておらず、最終的に脚を撃たれて捕らえられました。

    ネッド・ケリーの本物の鎧は現在もありますか?

    はい。ネッド本人がグレンローワンで着用した鎧はビクトリア州立図書館が所蔵しており、2026年現在、レッドモンド・バリー・リーディング・ルームで無料公開されています。

    「Such is life」はネッド・ケリーの本当の最後の言葉ですか?

    有名な言葉ですが、処刑直前に本人がそのまま発言したことを確実に裏付ける同時代記録はありません。後世の新聞記事などを通じて「Such is life」が最後の言葉として広く定着したと考えられています。

    ジェリルデリー・レターとは何ですか?

    1879年にネッドがジョー・バーンへ口述筆記させた56ページ、8,000語を超える文書です。ケリー一家と警察の関係や、ネッド自身の行動について本人側の主張が書かれています。現在はビクトリア州立図書館がオリジナルを所蔵しています。

    ネッド・ケリーは何歳で亡くなりましたか?

    1880年11月11日に25歳で処刑されました。出生年について古い資料には若干の違いがありますが、現在は1855年頃の生まれとされています。

    メルボルンでネッド・ケリー関連の場所を見られますか?

    はい。ビクトリア州立図書館では本物の鎧を見ることができ、近くのオールド・メルボルン・ジェイルはネッドが収監、処刑された場所です。どちらもメルボルンCBD内にあり、徒歩で組み合わせて訪れることができます。

    グレンローワンはメルボルンから日帰りできますか?

    車ならメルボルンから約2時間30分で、日帰りも可能です。ネッド・ケリー・ディスカバリー・ハブや包囲戦の史跡を巡ることができます。ベナラ、ビーチワースなど北東部ビクトリアの歴史的な町と組み合わせ、1泊以上する旅行にも向いています。



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  • 【2022年版】オーストラリアの有名な建造物 16選

    【2022年版】オーストラリアの有名な建造物 16選

    海外旅行のひとつの楽しみと言えば、その土地の文化や生活様式を表したお城や宮殿、教会や橋などの建物・建造物を巡ることですよね。

    英国海軍のアーサー・フィリップ大尉率いる最初の植民船団がシドニー湾に上陸した1788年から230年余り。

    歴史の浅いオーストラリアにも観光名所として知られる様々な建造物があります。

    今回はその中からいくつかご紹介したいと思います。

シドニー・オペラハウス

シドニー、またはオーストラリアのシンボル的存在として親しまれているのが、このシドニー・オペラハウスです。

白い貝殻が重なるような、またはヨットの帆が風にはためくかのようなシドニー・オペラハウスの外観は、デザイン・コンテストに応募された233件の中から選ばれたデンマークの建築家、ヨーン・ウツソン氏の設計案が基礎デザインとなっています。

1959年に着工したシドニー・オペラハウスは1963年の完成予定から大幅に遅れ、工事費用も当初予算より大幅に膨れ上がりました。

さらに新たに選出された州政府の面々と協力関係を築けなかったウツソン氏が建築設計者から辞任したため、そのあとを継いだ数人の建築家たちの手により、予定より10年遅れ、1973年に完成しました。

総工費は当初予定された700万ドルの14倍以上にもなる1億200万ドルに達したと言います。

内部には収容人数2679席の「コンサートホール」を始め、大小5つのホール/ シアターと5つのリハーサルスタジオ、4つのレストランと6つのバーがあります。

ちなみに「コンサートホール」内には、世界最大級の機械式パイプオルガン、「グランドオルガン」が鎮座しています。

建物の高さは183m、横幅は120m、面積は1.8ヘクタールとなっています。

建物を象徴する白いシェル状の屋根にはスウェーデン製のタイルが105万6000枚使われています。

シドニー・オペラハウスは2007年に開かれた第31回世界遺産委員会で世界遺産登録されました。

今日ではシドニー・オペラハウスはオーストラリアを代表する観光地になっており、毎年820万人以上の旅行者が訪れています。

また世界で最も忙しい劇場にもなっており、年間363日、2000以上の公演が行われ、150万人以上の観客がコンサートや観劇に訪れています。

シドニー・オペラハウスを観光する場合、様々な館内ツアーに参加することができます。

約1時間の「オペラハウス・ツアー」では、いくつかのホールを巡るほか、歴史や音響技術について学ぶことができます。

同じく約1時間の「アーキテクチャラル(建築学)・ツアー」では、1950年代に設計されたシドニー・オペラハウスの建築学的背景や工学・技術的側面を学ぶことができます。

少人数のグループで巡る約1時間の「ビヨンド・ザ・ステージ・ツアー」では、普段は見ることのできないバックステージ、所謂、舞台裏を訪れたり、隠れたエピソードを聞いたりすることができます。

その他にもお子様向けのツアーがあったり、「テイスト・オブ・ザ・ハウス」と呼ばれる館内ツアーとオペラハウスのレストランでのお食事がセットになったツアーも用意されています。

また現在、シドニー・オペラハウスでは夜間にプロジェクション・マッピングが行われています。

これはシドニー・オペラハウスの白い屋根を利用した、プロジェクターによる映像投影です。

シドニー湾の夜景の中に浮かび上がる幻想的な映像は、観光客のみならず国内外の多くの人々から高い人気を博しています。

建造物名

シドニー・オペラハウス (Sydney Opera House)

場所

Bennelong Point, Sydney NSW 2000(地図)

Webページ https://www.sydneyoperahouse.com/

シドニー・ハーバー・ブリッジ

オペラハウスと並び、シドニーの顔とも言えるのがこのシドニー・ハーバー・ブリッジです。

オペラハウスを望むシドニー湾に建ち、シドニーと北部のノースシドニーを結ぶ交通の要として機能しています。

「コートハンガー(コート掛け)」というニックネームは、その美しいアーチ型の曲線に由来しています。

ニューサウルウェールズ州公共事業局のジョン・ブラッドフィールド氏の監督のもと、1923年に着工、1932年に完成しました。

ブラッドフィールド氏は1914年に「シドニー・ハーバーブリッジと大都市鉄道建設プロジェクト」の主任技官に任命されました。

同年、勃発した第一次世界大戦の終戦後、ブラッドフィールド氏は世界を巡り、プロジェクトの入札業者を探しました。

また、幾多ある橋の形状から、アーチ型を採用することとし、公共事業局にてアメリカはニューヨークのヘル・ゲート・ブリッジをモデルとして基礎デザインを作成しました。

9年という歳月と625万ドルという莫大な費用を費やし、シドニー・ハーバー・ブリッジは完成しました。

503mという全長は、アーチ型の橋としては世界で8番目の長さとなります。

また、水面から134mという高さは鉄製アーチ型の橋としては世界最高となります。

現在は8車線のハイウェイ、シティレールの鉄道線路、自転車専用道、そして歩道が設置されており、世界一、車線が多い橋ともなっています。

シドニー・ハーバー・ブリッジは緩衝地域として、シドニー・オペラハウスと共に2007年に世界遺産登録されました。

観光としては、王立植物園内にある岬のミセス・マッコーリーズ・ポイントから、オペラハウスの全景と共に写真に収める、というのが定番となっています。

また、2006年に開業したブリッジクライム・シドニーでは、ハーバーブリッジのアーチ型の鉄橋の上を登ることができます。

昼間、トワイライト、夜間、と時間によって異なるクライムが楽しめ、中でも夕日をバックにシドニー・ハーバーブリッジの上からシドニー湾を見下ろせるトワイライトは人気のコースとなっています。

建造物名

シドニー・ハーバー・ブリッジ (Sydney Harbour Bridge)

場所

Sydney Harbour Bridge, Sydney NSW 2000(地図)

ブリッジクライムWebページ https://www.bridgeclimb.com/

クイーン・ビクトリア・ビルディング (QVB)

QVBの愛称で親しまれているこの建物は、1898年に着工、1898年に完成しました。

長さが190m、幅が30mあり、シドニー市役所(Sydney Town Hall)に隣接しています。

デザインはスコットランドからの移民で建築士のジョージ・マクラエ氏によるもので、もともとゴシック様式、ルネッサンス様式、クイーン・アン様式、ロマネスク様式と、様式の異なる4つのデザインが描かれました。

シドニー市役所により、最終的にはロマネスク・リバイバル様式が採用されています。

元は市場として想定されたこの建物は1898年のオープン当初、仕立て屋、反物屋、ヘアドレッサー、花屋、コーヒーショップから展示場、コンサートホールが立ち並びました。

しかし200もの店舗スペースが予定されていたにも関わらず、オープン当初はわずか47店舗しか賃貸契約がありませんでした。

1905年までに20店舗ほど増えましたが、やはり当初の予定には届かず、1910年に市場はシドニー市南部のヘイマーケット(現チャイナタウン内)に移設されました。

その後、改装工事を重ね、シドニー市図書館や行政施設として利用されていた期間もあります。

それでも建設費用との採算が取れずにいたこの建物は常に取り壊しの危機にさらされてきました。

1967年になり、オーストラリア・ナショナルトラスト協会によってやっとその歴史的資産価値が見直されました。

1984年から2年の月日と8600万ドルという費用が掛けられ、マレーシア企業によりQVBはショッピングセンターへ生まれ変わりました。

3階建ての建物の内部には、ブティックやハイブランドの洋服店、宝飾店などが並ぶようになります。

建物の運用は軌道に乗り、その後20年あまり買い物客を魅了し続けます。

さらに2008年より4800万ドルを掛けた改装工事によりエスカレーターが設置され、店舗スペースの装いも一新し、現在に至ります。

建造物名

クイーン・ビクトリア・ビルディング (Queen Victoria Building/ QVB)

場所

455 George Street, Sydney NSW 2000 (地図)

Webページ https://www.qvb.com.au/

セント・メアリー大聖堂

シドニーの街の中心地、ハイドパークの北東に隣接する、二つの尖塔を持つ巨大な教会がこのセント・メアリー大聖堂です。

最初の基礎工事が始まったのは1821年10月でした。

ジェームス・デンプシー氏により建設された教会は当初、十字の形をしたシンプルなゴシック建築でした。

1835年にはジョン・ポールディング氏がオーストラリアで初のローマカトリック教会の大司教になっています。

1851年にオーガスタス・ウェルビィ・プギン氏のデザインにより建物は改装されましたが、1865年の火災により焼失してしまいます。

現在のゴシック・リバイバル様式の大聖堂は1868年にポールディング大司教により最初の礎石が置かれたものです。

その後、63年間という紆余曲折の時を経て、1928年にセント・メアリー大聖堂は完成しました。

現在、ハイドパークから見える建物側面のゴシック様式の窓は、尖ったアーチ型と網目状の模様が特徴です。

屋根の輪郭は穴の開いた欄干、高窓の上部の装飾的な切妻飾り、フランス流の小さな屋根窓をいくつも施した角度の急なスレートの屋根でまとめられています。

ハイドパークに面した翼廊は、多くのフランスの聖堂で使われているように一般の出入り口になっており、ドアに豪華な装飾が施されています。

鐘を讃える尖塔はずんぐりした形ながらもその上にそびえる、かぎ針編みを施した円錐状の先端部分により、上品な印象を与えています。

尖塔の高さは74.6mあり、セント・メアリー大聖堂をオーストラリアで4番目に背の高い教会としています。

建物の内部は黄金色の砂岩でできており、その高い天井を支える巨大なアーチ型の柱の列が重厚で荘厳な印象を与えています。

正面、主祭壇の奥には色鮮やかで華やかな巨大ステンドグラスがあり、思わず目を奪われます。

このステンドグラスには聖母マリアの戴冠のストーリーが描かれています。

この他にも「ステーションズ・オブ・ザ・クロス」と題された油絵、聖母マリア像、ジョージ・ワシントン・ランバートによる「名もなき兵士」の彫像など貴重な美術品が数点、奉納されています。

建造物名

セント・メアリー大聖堂(St. Mary Cathedral)

場所

St. Mary Road, Sydney NSW 2000 (地図)

Webページ https://www.stmaryscathedral.org.au//

フリンダース・ストリート駅

メルボルンを象徴する建物と言えば、このフリンダース・ストリート駅の黄色い建物ですね。

メトロ・トレイン・メルボルンの近郊列車の中央駅であるこのフリンダース・ストリート駅は、1854年9月に、オーストラリア最初の鉄道駅として生まれました。

「メルボルンの起点」と呼ばれた当時の駅は単線で、30mほどのプラットホームがひとつあるだけでした。

1880年代に入ると駅は手狭となり、中央駅として生まれ変わるべく計画が進められていきます。

1900年になり、メインエントランスの上部のドーム型の屋根を讃え、エリザベス・ストリートの入り口に時計台を設けたフランス・ルネッサンス様式の、「グリーン・ライト」と名付けられた、鉄道会社職員たちのファウセット&アシュワースによるデザインがコンテストの一等賞を射止めました。

現在の駅舎は1909年に建てられたものになります。

蒸気機関車の時代が終焉を迎え、電車が初めてフリンダース・ストリート駅より出発したのが1919年でした。

1923年には一日2300本もの列車が乗り入れ、30万人もの人々が利用したこの駅は、世界で一番忙しい駅だと考えられていました。

1956年のメルボルン・オリンピックを控え、1954年には地下鉄もフリンダース・ストリート駅に乗り入れるようになりました。

その後も幾度となく改装と、度重なる金銭的挫折を繰り返し、今日に至ります。

現在のフリンダース・ストリート駅は1910年代の色合いを再現するため2017年に塗り替えられたものになります。

メインエントランス上部の時計は、1860年代には次の列車の出発時間を示すための時計でした。

建造物名

フリンダース・ストリート駅(Flinders Street Railway Station)

場所

Flinders Street, Melbourne VIC 3000 (地図)

Webページ https://www.flindersstreetstation.com.au/

ビクトリア州立図書館

八角形を形どり放射状に並んだリーディングデスク、背の高い真っ白なドーム型の天井、壁にぎっしりと並んだ蔵書、そのスケール感に似つかわしくない静寂。

私たちに日本人にはまるでアニメの世界のような非現実的な空間。

「ラ・トローブ」と名付けられたそんなリーディングルームを備えた巨大な図書館が、このビクトリア州立図書館です。

メルボルンの公立図書館として1854年に建てられたこの図書館は、2018年にはオーストラリアで最も忙しい図書館、世界では4番目に来館者の多かった図書館となりました。

200万冊の蔵書、35万点もの写真や原稿、地図、新聞などが収納されています。

現在の建物は1990年から2004年まで約2億ドルを掛けて改修されたものです。

建物を象徴するドーム型リーディングルームは1913年にオープンしたものです。

ノーマン・G・ピーブルス氏によりデザインされたこの八角形のスペースは100万冊以上の蔵書と600人もの閲覧者を収容することができます。

1999年より改装に入り、2003年に「ラ・トローブ・リーディングルーム」と名前を改められました。

この図書館のスワンソン・ストリート側の正面玄関前の芝生はメルボルン市民憩いの場となっており、お昼時にはピクニックランチを楽しむ会社員や学生で賑わいます。

歴史的価値の高い数々の古書や1800年代や1900年代の地図があるだけでなく、オーストラリアのアイコンのひとつともなっている無法者「ネッド・ケリー」が死の直前に警官隊と打ち合った際に身に付けていたお手製の鎧も展示されています。

建造物名

ビクトリア州立図書館(State Library Victoria)

場所

328 Swanston Street, Melbourne VIC 3000 (地図)

Webページ https://www.slv.vic.gov.au/

王立展示館

国会議事堂を思わせる荘厳な佇まい。花々が咲き乱れ、緑濃い庭園を誇るこの建物が王立展示館(または王立博覧会ビル)です。

世界文化遺産に登録されているこの王立展示館は、1851年から1915年の間に行われた50以上もの国際博覧会のひとつとして、1880年に建てられました。

26ヘクタールもの広大な土地に、150メートルという横幅で建てられています。

デザインは、メルボルン市庁舎やビクトリア州立図書館も手掛けたジョセフ・リード氏によるものです。

レンガ、木材、金属、スレートにより建てられており、ビザンチン、ロマネスク、ロンバルディック、イタリアン・ルネッサンスの各様式を取り入れており、オーストラリア最初の大陸ヨーロッパ風建築とも言われています。

1880年から1881年にはメルボルン国際博覧会を招致し、1888年にはヨーロッパ人のオーストラリア入植100周年を記念した、百周年国際博覧会の会場にもなりました。

1901年5月9日には第一回オーストラリア連邦議会の開会式も同建物内で開かれました。

その後、連邦議会はビクトリア州議事堂へ移動し、ビクトリア州議会がその後、26年間に渡りこの王立展示館で開かれました。

その後、幾多の焼失や取り壊しにより建物の一部を失いましたが、「グレート・ホール」と呼ばれるメインの建物は損壊を免れています。

1851年からの国際博覧会ムーブメント中に建てられた中で最も保存状態の良い建物として、この王立展示会は2004年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。

直近では、新型コロナウイルスに対するメルボルン市の大規模ワクチン接種センターとして利用されています。

建造物名

王立展示館(または王立博覧会ビル/ Royal Exhibition Building)

場所

9 Nicholson Street, Melbourne VIC 3000 (地図)

Webページ https://museumsvictoria.com.au/reb/

セント・パトリック大聖堂

金色の尖塔と濃灰色の建屋でメルボルン中心地に存在感を誇る巨大な教会がこのセント・パトリック大聖堂です。

1848年に聖アウグスチノ修道会が修道士であったジェームス・グールド氏をメルボルンで最初の司教に指名しました。

オーストラリアでは4番目の司教となったジェームス・グールド氏は、イースタン・ヒル地域に5エーカーの土地取得を申請し、1851年、メルボルン創立からわずか16年にしてローマ・カトリック教会の建設が認可されました。

当時、メルボルンのカトリック・コミュニティーの大勢はアイルランド移民に占められていたので、教会はアイルランドの守護聖人である聖パトリキウスにちなんでセント・パトリック大聖堂と命名されました。

メルボルンの教会建築の第一人者ウイリアム・ウォーデル氏により設計されたこの教会は、当時のゴールドラッシュによる深刻な労働力不足に見舞われたため完成が遅れに遅れ、90年近い歳月を経て1939年にやっと完成しました。

1986年には教皇ヨハネ・パウロ2世が公式訪問しています。

横幅こそ103.6メートルとシドニーのセント・メアリー大聖堂に最長の座を譲りましたが、尖塔の高さ105メートルとオーストラリアで最も背の高い教会、そしてオーストラリアで最も大きな教会、の座を誇っています。

夜は外壁がライトアップされるので、さらに神秘的な佇まいを楽しむことができます。

1870年代には聖堂内にパイプオルガンが作り始められ、1880年に完成しています。

現在のパイプオルガンは1962年から1964年に修復されたものとなっており、教会の聖歌隊とともに今もその美しい音色を来訪者へ届けています。

大聖堂の鐘のうち8つはゴールド司教が訪欧の際に購入したもので、8つ合計で35トンもの重さがあります。

1988年にはこれに9つめの鐘が追加され、現在に至ります。

建造物名

セント・パトリック大聖堂(St. Patrick’s Cathedral)

場所

1 Cathedral Pl., East Melbourne VIC 3002 (地図)

Webページ https://melbournecatholic.org/about/st-patricks-cathedral

クックス・コテージ(キャプテン・クックの生家)

メルボルン、フィッツロイ庭園の中に建つレンガ造りのこじんまりとした家、それがキャプテン・クックの生家、クックス・コテージです。

ジェームス・クックは言わずと知れた、1770年にシドニーのボタニー湾に初めて上陸し、オーストラリア大陸の領有を宣言したイギリスの海軍士官にして海洋探検家です。

ジェームス・クックの生家は1755年に、クックの両親により英国イングランドのノースヨークシャー州グレート・アイトンに建てられたもので、1934年10月にメルボルン入植100周年を記念し、イングランドよりフィッツロイ庭園内に移されました。

移動の際にはレンガひとつひとつにまで解体され、253箱と40樽に梱包され海を渡りました。

この生家はオーナーにより売りに出されていましたが、オーストラリア人のラッセル・グリムウェイド氏により落札。

ビジネスマンであり慈善家でもあったグリムウェイド氏はこの家をビクトリア州の人々へと寄贈しました。

1978年にはさらなる修復が行われ、家の周囲にも英国風庭園が造られました。

内部の家具は当時のイングランドの生活を再現して展示されています。

建造物名

クックス・コテージ(キャンプテン・クックの生家/ Cook’s Cottage)

場所

Fitzroy Gardens, Wellington Parade, East Melbourne VIC 3002 (地図)

Webページ http://www.fitzroygardens.com/Cooks_Cottage_History.htm



キャンベラ国会議事堂

オーストラリアの連邦議会が開かれるのがキャンベラにあるこの国会議事堂です。

現在の国会議事堂はキャピタル・ヒルに建てられており、1988年5月9日にオープンしました。

当時の金額で11億ドルもの巨額を投じて建設されました。

川をせき止め湖を作り出したり、機能的に道路を配置したりと計画的に設計された都市・キャンベラの、放射線状に伸びる道路の中心にこの国会議事堂が位置しています。

もともと連邦議会は1927年までメルボルンにて開かれていました。

1927年から1988年までは現在の国会議事堂の手前に建っている白い建物、旧議事堂にて議会が開かれていました。

現国会議事堂には4700もの部屋があり、議事堂の大部分は一般に公開されています(現在はコロナ渦により一時休止中)。

メインのホールには大理石の階段があり、グレート・ホールと呼ばれる大議事室に続いています。

大議事室には大きなタペストリーが掲げられており、下院の会議場は緑をテーマにし、上院の会議場は赤をテーマにして装飾されています。

ふたつの会議場の間はメンバーズ・ホールとなっており、こちらは一般公開はされていません。

大臣棟にはオーストラリア首相のオフィスや他の大臣の執務室があります。

建造物名

国会議事堂(Parliament House)

場所

Parliament Drive, Canberra ACT 2600 (地図)

Webページ https://www.aph.gov.au/

ブリスベン・シティホール

ブリスベンのランドマークとなる大きな時計台と神殿を思わせる花崗岩でできたベージュ色の豪奢な建物。

それがブリスベン・シティホールです。

ローマのパンテオン神殿を模したとされる講堂といくつかの小さなレセプションルームを擁しています。

講堂には大きな円形のホールがあり、1600人もの人を収容することができます。

この円形のホールの上部には青銅製のドームがあり、これは南半球最大のものとなっています。

1914年に当時のブリスベン市長、チャールズ・モファット・ジェンキンソン氏により現在のキング・ジョージ・スクエアがその建設地に選ばれ、1917年に着工しました。

1930年に公式にオープンし、1980年代に一度、そして2010年から2013年までの二度に渡る改修工事を経て現在に至ります。

イタリア・ルネッサンス様式のこの建物には64メートルの高さを誇る時計台があり、四角柱の尖塔の4面すべてに直径4.8メートルの時計が埋め込まれています。

短針の長さは1.7メートル、長針の長さは3メートルあり、そのウェストミンスター式チャイムが15分ごとに時を知らせてくれます。

キング・ジョージ・スクエアの正面玄関ではキング・ジョージ5世と2頭のライオンの銅像が出迎えてくれます。

建造物名

ブリスベン・シティホール(Brisbane City Hall)

場所

64 Adelaide Street, Brisbane QLD 4000 (地図)

Webページ https://www.facebook.com/EPICUREatBrisbaneCityHall/

Q1(キューワン)

ゴールドコースト、サーファーズパラダイスの青空に突き抜けるようにそびえ立つ青銅色の円柱、それがサーファーズパラダイスのランドマーク、Q1(キューワン)です。

完成した2005年11月からその後2011年まで、世界で最も背の高い居住棟となっていました。

2021年現在も世界で11番目に背の高い居住ビルディングとなっています。

尖塔も入れた高さが322.5メートル、屋根までの高さが245メートルとなっており、77階と78階が展望デッキ「スカイポイント」となっています。

スカイポイントはサーファーズパラダイスのビーチから230メートルの高さに位置しており、一度に400名が収容可能となっています。

屋根までの高さで比較した場合、オーストラリアにはメルボルンの「オーストラリア108」(屋根の高さ316.7メートル)、「ユーレカタワー」(屋根の高さ297.3メートル)などがありますが、世界基準は尖塔までを含めた高さで比較することとなっていますので、このQ1が現在もオーストラリアで最も背の高い建物となっています。

その特徴的な外見は、シドニーオリンピックのトーチとオペラハウスからインスパイアされてデザインされています。

またその名称「Q1」は1920年代に活躍したスカル(ボート競技)のオリンピックチームの愛称、Q1から来ています。

Q1はコンドミニアム型の宿泊施設として「Q1リゾート&スパ」の名称で営業しています。

リゾートは2つのラグーンプール、ジム、スパ、ミニシアターを備えており、宿泊のルームカテゴリーは1ベッドルーム、2ベッドルーム、3ベッドルーム、4ベッドルームのアパートメントおよびペントハウスに分かれています。

展望デッキ「スカイポイント」では、展望デッキへの観光の他、スカイポイント・ビストロ + バーでお食事を楽しんだり、命綱を付けて展望デッキの外側を歩く「スカイポイント・クライム」を楽しむことができます。

建造物名

キューワン(Q1)

場所

9 Hamilton Avenue, Surfers Paradise QLD 4217 (地図)

Webページ https://www.q1.com.au/

フリーマントル刑務所

パース近郊のおしゃれな港町・フリーマントルには観光スポットとしては珍しい建物があります。

それがこのフリーマントル刑務所です。

フリーマントル刑務所は、シドニーのハイド・パーク・バラックス、タスマニア州のポートアーサーら他の11の施設と共に「オーストラリアの囚人遺跡群」として2010年にユネスコの世界文化遺産に登録されています。

フリーマントル刑務所は1851年に、イギリス本国から流刑に処せられた囚人たちのための刑務所として着工されました。

完成したのは1859年で、当時は「石灰岩でできたロッジ」=ライムストーン・ロッジと呼ばれていました。

1868年にイギリス本国から西オーストラリアへの流刑処置が廃止されると徐々に流刑囚人の数は減り、1886年には刑務所は西オーストラリア植民地政府の管轄となって西オーストラリアの囚人が収容されるようになりました。

第一次世界大戦から第二次世界大戦の間はオーストラリア陸軍によりフリーマントル刑務所の一部が利用され、1939年から1946年の間は陸軍の軍事刑務所としても利用されました。

1988年には刑務所内の室温が高温になることを巡り「フリーマントル刑務所暴動」が起き、これを機に1991年11月、フリーマントル刑務所は閉鎖となりました。

6ヘクタールの敷地には今も刑務所の他、守衛詰所、防護壁、コテージ、トンネル、囚人たちが残した芸術作品が残されています。

建造物名

フリーマントル刑務所(Fremantle Prison)

場所

1 The Terrace, Fremantle WA 6160 (地図)

Webページ https://fremantleprison.com.au/

フレッシュウォーター駅

サトウキビ畑に囲まれたクラシックな駅舎、それがフレッシュウォーター駅です。

フレッシュウォーター駅はケアンズ郊外の世界自然遺産の熱帯雨林のジャングルを駆け抜けるキュランダ高原列車の駅のひとつです。

キュランダ高原列車はテーブルランド鉄道線の一部、ケアンズ・キュランダ鉄道線を走ります。

テーブルランド鉄道線は内陸のハーバートン近郊の鉱山とケアンズ港を結ぶ線路として建設されました。

フレッシュウォーター地域を含むケアンズからの最初の8マイルは1887年10月に開業しました。

開業前の1887年3月、そして開業後の1888年1月には大雨による2度の洪水に見舞われています。

こうした苦難を乗り越え1887年から4年の歳月をかけてキュランダ高原列車を建設した開拓者たちに敬意を表し、1984年にこのフレッシュウォーター駅が建てられました。

現在は空港やケアンズ市内のホテルから観光客を乗せてくるツアーバスからキュランダ鉄道に乗り換える中継地として機能しており、「フレッシュウォーター・コネクション」とも呼ばれています。

また、駅舎にはキュランダ高原列車の歴史を紹介する展示室があるほか、85年前の客車を利用したレストラン、「レストラン・パビリオン」があります。

レストラン・パビリオンでは昔ながらのほの明るい電灯と優しい冷暖房に迎えられて、キュランダ観光前に朝食を楽しむことができます。

2018年には改装工事も行われプラットフォームが延長されたほか、駐車場の拡張、バリアフリー施設への設備追加などが行われました。

建造物名

フレッシュウォーター駅(Freshwater Railway Station)

場所

Kamerunga Road, Barron QLD 4878 (地図)

Webページ https://www.ksr.com.au/KSRJapan/Pages/Freshwater.aspx

チラゴー精錬所

ケアンズから西へ205km。

赤土とブッシュに囲まれたレンガ造りの煙突。

1992年にクイーンズランド州より歴史的建造物として遺産指定されたチラゴー精錬所は現在、建物の内部に入ることはできず、駐車場から展望台を繋ぐ遊歩道からその赤土にそびえ建つ煙突と静かに佇む精錬所の全景を見ることができます。

チラゴー地区は1887年に銀の発掘により初めて注目を集めました。

マリーバ地区から150kmもの距離を走る鉄道が1900年に完成すると、大規模な鉱物原料の運び込みとそこから精錬された商品の出荷が可能になったためこの精錬所の建設が始まりました。

その後、1908年には労働者の賃金値上げおよび銅の価格下落、1909年には鉛の価格下落、さらに1911年には当時、鉱物供給を頼っていたイーサーリッジとの間の鉄道の橋が大雨で流されチラゴー精錬所が操業停止に追い込まれたりと数々の不運に見舞われました。

しかしながら1920年には第一次世界大戦により金属や銅の価格が上がり、その施設価値を見直したクイーンズランド州政府により資金援助を受けるに至ります。

建設当初に計画された精錬能力を活かしきることなく、資金援助を受けながら雇用確保のために操業を続けていたチラゴー精錬所はそれでも1932年には創業以来、最大量の銅の生産を達成しました。

ところが今度は第二次世界大戦が始まるとオーストラリア政府は国内の鉱物生産体制の効率化、高収益化の見直しを迫られ、毎年赤字を計上し生産能力の4分の1程度しか稼働しておらず千キロも離れた鉱山から鉱物材料を運び入れる必要のあった“採算の合わない“チラゴー精錬所は事業整理の対象となり、その40年あまりの歴史に幕を閉じました。

この40年の間にチラゴー精錬所は125万トンの鉱物を精錬し、6万トンの銅、5万トンの鉛、184トンの銀、5.1トンの金を精製しました。

建造物名

チラゴー精錬所跡(Chillagoe Smelters)

場所

Chillagoe QLD 4871 (地図)

Webページ https://parks.des.qld.gov.au/parks/chillagoe-caves/about/chillagoe-smelters

ポート・アーサー

ポート・アーサーはタスマニア州の州都ホバートから約60km離れたこじんまりとした街です。

かつてはここにオーストラリア国内最大の流刑植民地がありました。

タスマニア島へのヨーロッパ人の入植は1803年に始まりましたが、当初からヨーロッパ人と先住民族アボリジニとの衝突がありました。

ヨーロッパ系白人の人口増加に反比例してアボリジニの人口は激減し、さらに1826年、副総督であったジョージ・アーサーは武力でアボリジニを追い払う権利を白人に与え、軍隊の武力をもってこれをサポートすることを宣言しました。

1830年にはアボリジニの人々をタスマン半島へ追いやり捕獲するという作戦が展開されました。

そんな中、ポート・アーサーは1830年に木場として開拓され始め、やがて造船、靴製造などが展開されます。

1833年には流刑植民地の建設が始まり、イギリス人やアイルランド人にとって最も過酷な流刑地と呼ばれるようになりました。

中でも巨木を切り出し製材する業務に従事させられるのは重労働でした。

タスマン半島はイーグルホーク・ネックと呼ばれる地峡でタスマニア本島と繋がっており、ここに哨戒灯と哨戒犬を配備した脱走監視システムはポート・アーサーを最も厳格なセキュリティ体制の流刑植民地にしていました。

1840年代半ばになると流刑囚人の数が減っていき、1877年にはポート・アーサーの刑務所も閉鎖されました。

その後、タスマン半島の自然の美しさが見直され、1880年に刑務所施設は観光施設へ生まれ変わりました。

1892年には観光客のために港も整備されました。

タスマン半島の土地は農場や果樹園へと生まれ変わり、農業がタスマン半島の基幹産業として成長します。

20世紀初頭までにタスマン半島には8つの学校も設立されました。

1987年にはポート・アーサー歴史史跡管理局が設立されました。

ポート・アーサーは、シドニーのハイド・パーク・バラックス、西オーストラリア州のフリーマントル刑務所ら他の11の施設と共に「オーストラリアの囚人遺跡群」として2010年にユネスコの世界文化遺産に登録されています。

建造物名

ポート・アーサー(Port Arthur)

場所

Port Arthur TAS 7182 (地図)

Webページ https://portarthur.org.au/



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