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  • なぜオーストラリアは流刑地だった?囚人植民地の歴史をわかりやすく解説

    なぜオーストラリアは流刑地だった?囚人植民地の歴史をわかりやすく解説

    オーストラリアの歴史を調べていると、必ずといっていいほど出てくるのが「もともとはイギリスの流刑地だった」という説明です。

    確かに1788年、現在のシドニーに到着したファースト・フリート(First Fleet)には、多数の流刑囚が乗っていました。その後も約80年間にわたり、16万人を超える人々がイギリスやアイルランドなどからオーストラリアの植民地へ送られています。

    ただし、「イギリスが犯罪者を遠い島に捨てた」という一言だけでは、この歴史を正確には説明できません。

    なぜ地球の反対側にあるオーストラリアが選ばれたのでしょうか。流刑囚はどんな犯罪を犯した人だったのでしょうか。そして、シドニーやホバート、ブリスベン、フリーマントルといった現在の都市と、流刑制度にはどんな関係があるのでしょうか。

    オーストラリアって、国全体が巨大な刑務所として始まったんですか?
    そこは少し違います。現在のオーストラリア全土がひとつの流刑地だったわけではありません。ニューサウスウェールズ、タスマニア、西オーストラリアなど、地域や時代によって流刑制度との関わり方も異なりました。

    現在では、シドニー中心部のハイド・パーク・バラックス(Hyde Park Barracks)、タスマニアのポート・アーサー(Port Arthur)、西オーストラリア州のフリーマントル刑務所(Fremantle Prison)など、当時の歴史を実際に歩いて学べる場所も残っています。

    この記事では、オーストラリアが流刑先に選ばれた理由から、流刑囚の生活、刑期終了後の人生、先住民への影響、流刑制度の終焉、現在見学できる史跡まで、旅行者にもわかりやすく紹介します。

    目次:オーストラリアの囚人植民地の歴史(クリックで開閉)
    1. オーストラリアは本当に「流刑地」として始まった?
    2. そもそも「流刑」とはどんな刑罰?
    3. 以前はアメリカへ囚人を送っていた
    4. アメリカ独立で送り先を失ったイギリス
    5. 刑務所が足りず「監獄船」があふれた
    6. なぜオーストラリアが選ばれた?
    7. 最初の目的地はシドニーではなくボタニー・ベイ
    8. 1788年、ファースト・フリート到着
    9. シドニー・コーブに植民地を建設
    10. どんな犯罪でオーストラリアへ送られた?
    11. 凶悪犯ばかりではなかった
    12. イギリスからオーストラリアまでの航海
    13. 流刑囚はオーストラリアで何をしていた?
    14. 全員が刑務所に閉じ込められていたわけではない
    15. 流刑囚の生活と規律
    16. 再犯するとさらに厳しい流刑地へ
    17. 恐れられたノーフォーク島
    18. ポート・アーサーとは?
    19. 女性の流刑囚もいた
    20. 子供まで流刑になることがあった
    21. 刑期が終わったらどうなった?
    22. 元流刑囚から成功者になった人も
    23. シドニーを造った流刑囚フランシス・グリーンウェイ
    24. 先住民にとって1788年は何を意味した?
    25. オーストラリア全土が流刑地だったわけではない
    26. 流刑制度はいつ終わった?
    27. 11か所の「オーストラリアの囚人遺跡群」
    28. 旅行中に訪れやすい3つの流刑史跡
    29. シドニー|ハイド・パーク・バラックス
    30. パース|フリーマントル刑務所
    31. 現在のオーストラリアに残る流刑時代の痕跡
    32. 「囚人の国」という一言では語れない歴史
    33. よくある質問




    オーストラリアは本当に「流刑地」として始まった?

    「オーストラリアは流刑地として始まった」という説明は、大まかには間違いではありません。

    1788年にイギリスが現在のシドニーに最初の恒久的な植民地を建設した際、その中心となったのはイギリスから送られてきた流刑囚でした。

    ただし、現在のオーストラリアという国が1788年に存在していたわけではありません。

    当時はニューサウスウェールズ植民地がつくられ、そこからヨーロッパ人による植民地化が広がっていきました。その後、タスマニアや西オーストラリアなどにも流刑囚が送られています。

    一方、南オーストラリア州の前身となる南オーストラリア植民地は1836年に流刑囚を送らない「自由植民地」として設立されました。

    現在の州境と、19世紀当時の植民地の境界も一致していません。

    そのため、「オーストラリア全土が巨大な刑務所だった」と考えるより、「現在のオーストラリアの一部の植民地が、イギリスの流刑制度と深く結びついて発展した」と理解するほうが正確です。

    そもそも「流刑」とはどんな刑罰?

    当時のイギリスでは、犯罪者を国外の植民地へ送り、一定期間そこで働かせる流刑(Transportation)が刑罰として使われていました。

    流刑制度そのものはオーストラリアのためにつくられたものではありません。

    イギリスでは17世紀から、死刑に代わる刑罰として犯罪者を海外へ送る制度が利用されていました。

    1717年の法律以降は制度がさらに整備され、7年、14年、終身などの流刑判決が下されるようになります。

    「流刑」といっても、単純に遠い土地へ追放して終わりではありません。

    植民地に到着した流刑囚には労働が課され、刑期中は自由な移動も大きく制限されました。

    以前はアメリカへ囚人を送っていた

    オーストラリアへの流刑が始まる前、イギリスからの囚人の主な送り先のひとつは北米の植民地でした。

    18世紀には5万人を超える流刑囚が、イギリスから北米へ送られたとされています。

    大西洋を渡った流刑囚は、一定期間労働力として使われました。

    つまり、遠隔地の植民地へ犯罪者を送るという考え方自体は、1788年よりずっと前から存在していたのです。

    アメリカ独立で送り先を失ったイギリス

    ところが1775年から始まったアメリカ独立戦争によって状況が一変します。

    独立したアメリカは、当然ながらイギリスから流刑囚を受け入れ続ける理由がありません。

    1776年以降、イギリスはそれまで使っていた大規模な流刑先を失いました。

    しかも18世紀後半のイギリスでは社会や経済が急速に変化し、刑務所に収容される人も増えていました。

    そこでイギリス政府は、新しい流刑先を探さなければならなくなります。

    刑務所が足りず「監獄船」があふれた

    アメリカへの流刑が止まったからといって、国内の犯罪者が減ったわけではありません。

    既存の刑務所だけでは収容しきれなくなり、イギリスでは使わなくなった古い船を川や港に係留し、囚人を収容するようになりました。

    これが監獄船(Prison Hulk)です。

    内部は非常に混雑し、衛生状態も悪く、病気が広がりました。

    アフリカやカリブ海などを新たな流刑先とする案も検討されましたが、最終的に選ばれたのが、ヨーロッパからはるか遠く離れたオーストラリア東海岸でした。

    なぜオーストラリアが選ばれた?

    ここでよく出てくる疑問が、「なぜ、わざわざ地球の反対側まで囚人を運んだのか」です。

    最大の直接的な理由は、アメリカに代わる新たな流刑先が必要だったことでした。

    1770年にジェームズ・クック(James Cook)がオーストラリア東海岸を航海し、イギリスはその地域について一定の情報を得ていました。

    1783年にはジェームズ・マトラ(James Matra)がボタニー・ベイ(Botany Bay)に植民地を設ける案をイギリス政府へ提出し、ジョセフ・バンクス(Joseph Banks)もこれを支持しました。

    1785年、イギリス政府はニューサウスウェールズに流刑植民地をつくる方針を決定します。

    ただし、新しい植民地には犯罪者を遠ざけるという役割だけでなく、イギリスの海外拠点を築き、植民地を開発するという意味もありました。

    流刑囚は単なる「収容対象」であると同時に、道路、建物、農場、港湾施設などを造る労働力でもあったのです。

    最初の目的地はシドニーではなくボタニー・ベイ

    意外に思われるかもしれませんが、ファースト・フリートが最初から現在のサーキュラー・キー(Circular Quay)を目指していたわけではありません。

    最初の目的地は、現在のシドニー空港より南東にあるボタニー・ベイでした。

    1788年1月18日から艦隊が順次到着しましたが、初代ニューサウスウェールズ総督となったアーサー・フィリップ(Arthur Phillip)は、この場所が恒久的な植民地には適していないと判断します。

    農業に適した土地や十分な淡水の確保などに問題があったためです。

    そこでフィリップは北側のポート・ジャクソン(Port Jackson)、つまり現在のシドニー湾を調査しました。

    そこで見つけたのが、深い入り江と淡水を備えたシドニー・コーブ(Sydney Cove/先住民名ワラン〈Warrane〉)でした。

    1788年、ファースト・フリート到着

    ファースト・フリートは1787年5月13日、イギリスのポーツマス(Portsmouth)を出航しました。

    艦隊は全部で11隻。

    軍艦2隻、流刑囚輸送船6隻、物資輸送船3隻で構成され、およそ1,500人の人々が約8か月に及ぶ航海に出ました。

    資料によって人数の集計方法には若干の違いがありますが、約750人が流刑囚でした。

    男性だけでなく、女性の流刑囚も含まれていました。

    艦隊はテネリフェ、リオデジャネイロ、喜望峰などを経由し、1788年1月にオーストラリアへ到着します。

    シドニー・コーブに植民地を建設

    1788年1月26日、ファースト・フリートはポート・ジャクソンのシドニー・コーブへ移動し、植民地建設を本格的に開始しました。

    現在ではオペラハウスや高層ビル、レストランが並ぶサーキュラー・キー周辺ですが、当時はもちろん都市どころか道路すらありません。

    森林を切り開き、テントを設営し、食料庫、住居、倉庫などを一から造らなければなりませんでした。

    そしてその作業を担った大きな労働力が流刑囚でした。

    現在シドニーを旅行してサーキュラー・キーを歩いても「元流刑植民地」という印象はほとんどありませんが、ヨーロッパ人によるシドニーの都市建設はここから始まったのです。



    どんな犯罪でオーストラリアへ送られた?

    「流刑囚」と聞くと、殺人犯や凶悪な犯罪者ばかりを想像するかもしれません。

    しかし実際には、窃盗など現在の感覚では比較的軽い犯罪で流刑判決を受けた人も数多くいました。

    当時のイギリスでは、現在よりはるかに多くの犯罪に厳しい刑罰が定められていました。

    流刑囚には次のような人々が含まれていました。

    犯罪・背景 例
    窃盗 衣類、食料、金銭、家畜などを盗む
    強盗・侵入盗 住宅や店への侵入、路上強盗など
    偽造 紙幣、文書、小切手などの偽造
    再犯 以前にも犯罪歴があり、再び有罪となった人
    政治・社会運動 反乱、抗議運動、労働運動などに関わった人

    特に貧困層では、食料や衣服を盗んだことがきっかけで流刑になるケースもありました。

    凶悪犯ばかりではなかった

    だからといって、「流刑囚は全員、ささいな罪で不当に送られた」と考えるのも正確ではありません。

    強盗や暴力犯罪、重大な再犯を犯した者もいました。

    また流刑判決に至る事情は一人ひとり異なります。

    重要なのは、現在の「刑務所に収容される犯罪者」というイメージを、そのまま18~19世紀の流刑囚へ当てはめないことです。

    窃盗犯、職人、兵士、船員、農業労働者、政治犯など、実にさまざまな人が流刑船に乗せられていました。

    イギリスからオーストラリアまでの航海

    現在ならロンドンからシドニーまで飛行機で約1日ですが、18~19世紀はまったく違います。

    流刑船の航海には数か月を要しました。

    狭い船内で長期間生活し、食事、水、衛生、感染症などの問題と向き合わなければなりません。

    ファースト・フリートでは比較的健康管理が行き届きましたが、その後すべての輸送船が同じ条件だったわけではありません。

    特に1790年に到着したセカンド・フリート(Second Fleet)では、船内環境の悪さから多くの死者が出ました。

    流刑とは判決そのものだけでなく、家族や故郷から何千キロも離され、いつ戻れるかわからない航海へ送られることでもありました。

    流刑囚はオーストラリアで何をしていた?

    植民地では、とにかく人手が必要でした。

    港も道路も町も十分にない状態から植民地を造るため、流刑囚はさまざまな仕事に従事しました。

    仕事 内容
    道路建設 森林を切り開き、都市間を結ぶ道路を建設
    建築 兵舎、病院、教会、倉庫、官庁などを建設
    農業 畑の開墾、農作物の栽培、家畜の世話
    石切り 砂岩などを採掘し、建築材料として加工
    港湾作業 荷物の積み下ろし、埠頭や倉庫の整備
    職人仕事 大工、鍛冶、靴製造、レンガ製造、造船など
    家事 料理、洗濯、掃除、子守など

    流刑囚の中には、イギリスで身につけた専門技術を持つ人もいました。

    そうした職人は、植民地建設にとって貴重な人材でした。

    全員が刑務所に閉じ込められていたわけではない

    現代の刑務所との大きな違いがここです。

    流刑囚の多くは、大きな刑務所の独房で刑期すべてを過ごしたわけではありません。

    政府の建設工事などに従事する人もいれば、民間の農場や家庭などへ労働力として割り当てられる人もいました。

    勤務態度や刑期の進み具合によって、生活の自由度にも差がありました。

    一方、脱走や規則違反、植民地到着後の再犯などがあれば、鞭打ち、鎖を付けた重労働、独房、より厳しい流刑地への移送といった処罰を受ける可能性がありました。

    流刑囚の生活と規律

    流刑囚の待遇は、時代、場所、仕事、監督者などによって大きく異なりました。

    比較的自由に働きながら生活できた人もいれば、厳しい監視のもとで重労働を課された人もいます。

    シドニーのハイド・パーク・バラックスでは、多数の男性流刑囚が大部屋に吊ったハンモックで眠りました。

    起床、食事、仕事、点呼、消灯と生活は規則によって管理されます。

    規則違反をすると、特権の剥奪、鎖、重労働、独房、鞭打ちなどの処罰が科されることもありました。

    それでも模範的に生活した人には、刑期終了前に一定の条件のもとで働き暮らすことを認めるチケット・オブ・リーブ(Ticket of Leave)などの仕組みもありました。

    再犯するとさらに厳しい流刑地へ

    ニューサウスウェールズ植民地へ送られた後に再び罪を犯した流刑囚は、さらに厳しい「二次処罰」の場所へ送られる場合がありました。

    代表的なのがノーフォーク島、モートン・ベイ、ポート・アーサーなどです。

    こうした場所は都市部から離れており、脱走も困難でした。

    現在のブリスベンにつながるモートン・ベイ流刑植民地(Moreton Bay Penal Settlement)も、1824年に再犯者などを収容する二次処罰地として設けられました。

    当時はまだ「クイーンズランド州」は存在しておらず、ニューサウスウェールズ植民地の一部です。

    流刑地は1842年に閉鎖され、その後、モートン・ベイ地区は自由入植者に開放されました。

    恐れられたノーフォーク島

    シドニーから東へ約1,400キロ離れたノーフォーク島(Norfolk Island)も、流刑制度で重要な役割を果たしました。

    島にはファースト・フリート到着直後の1788年からヨーロッパ人による入植が始まり、その後は特に厳しい二次処罰地として知られるようになります。

    本土から遠く離れ、海に囲まれているため、脱走は非常に困難でした。

    現在のノーフォーク島にあるキングストンとアーサーズ・ベール歴史地区も、「オーストラリアの囚人遺跡群」を構成する世界遺産のひとつです。

    ポート・アーサーとは?

    オーストラリアの流刑史を象徴する場所として、おそらく最も有名なのがタスマニア州のポート・アーサーです。

    当時のタスマニアはヴァン・ディーメンズ・ランド(Van Diemen’s Land)と呼ばれていました。

    ポート・アーサーは1830年に、流刑囚を使った木材生産拠点として始まります。

    1833年からは、植民地で再び罪を犯した男性流刑囚などを送る重要な二次処罰地になりました。

    木材、レンガ、靴、家具、造船などさまざまな産業が行われ、1840年代には流刑囚だけでも1,000人を超える大規模施設へ発展しました。

    後には身体的な罰だけでなく、囚人を隔離して沈黙させる「分離刑務所」の考え方も導入されています。

    現在は美しい海と緑に囲まれた観光地ですが、保存された建物や廃墟を歩くと、その穏やかな景色との落差に驚かされます。



    女性の流刑囚もいた

    流刑囚というと男性のイメージが強いですが、女性もオーストラリアへ送られています。

    窃盗などで有罪となった女性が多く、植民地では家事使用人、洗濯、裁縫などの仕事に就くケースもありました。

    一方、規則に違反した女性などを収容し、働かせる施設としてフィーメール・ファクトリー(Female Factory)と呼ばれる施設もつくられました。

    ホバート近郊のカスケーズ・フィーメール・ファクトリー(Cascades Female Factory)は、現在も残る代表的な施設で、世界遺産「オーストラリアの囚人遺跡群」の一部になっています。

    オーストラリアの流刑史を男性だけの歴史として見ると、植民地社会の実像を大きく見落としてしまいます。

    子供まで流刑になることがあった

    さらに現代の感覚では驚くことですが、若年者も流刑の対象になりました。

    イギリスの厳しい刑事制度のもとでは、盗みなどで有罪になった少年がオーストラリアへ送られることもありました。

    ポート・アーサーの近くには、1834年に設けられた少年流刑囚の施設ポイント・ピュアー(Point Puer)がありました。

    少年を成人男性から分離し、教育や職業訓練を施そうという考えもありましたが、生活は厳しく、現在の少年司法とはまったく異なる制度でした。

    刑期が終わったらどうなった?

    流刑囚は生涯ずっと囚人だったわけではありません。

    7年や14年などの刑期を終えれば自由になり、条件付き恩赦や完全な恩赦を受ける人もいました。

    自由になった元流刑囚はエマンシピスト(Emancipist)などと呼ばれ、農民、商人、職人などとして植民地社会に暮らしました。

    問題は、故郷に帰ることが簡単ではなかったことです。

    オーストラリアからイギリスまでの船賃は高く、家族とも長期間離れています。

    そのため、刑期を終えた後もオーストラリアに残り、新しい人生を築いた人が大勢いました。

    こうして元流刑囚やその家族は、初期の植民地人口の重要な一部になっていきます。

    元流刑囚から成功者になった人も

    流刑歴があっても、その後に成功した人はいました。

    有名な例のひとりがメアリー・ライビー(Mary Reibey)です。

    窃盗で有罪となり、1792年にニューサウスウェールズへ送られましたが、その後は商業や船舶事業などで成功しました。

    彼女は長年、オーストラリアの20ドル紙幣にも肖像が使われていた人物として知られています。

    ほかにも農場主や実業家、職人として成功した元流刑囚が存在します。

    「犯罪者として到着した人が、刑期後には植民地社会をつくる側に回る」という点が、オーストラリアの流刑制度を理解するうえで興味深いところです。

    シドニーを造った流刑囚フランシス・グリーンウェイ

    シドニー旅行者にとって特に身近なのが、建築家フランシス・グリーンウェイ(Francis Greenway)です。

    グリーンウェイはイギリスで文書偽造の罪により有罪となり、1814年にニューサウスウェールズへ流刑されました。

    しかし建築家としての能力を認められ、ラクラン・マッコーリー総督(Lachlan Macquarie)のもとで政府建築に関わるようになります。

    現在も残る代表作が、シドニー中心部のハイド・パーク・バラックスです。

    つまり「流刑囚を収容する建物を、流刑囚として送られてきた建築家が設計した」ということになります。

    すぐ近くのセント・ジェームズ教会(St James’ Church)などにもグリーンウェイの仕事が残っており、シドニー中心部を歩くだけでも流刑時代の建築を見ることができます。

    先住民にとって1788年は何を意味した?

    流刑制度の歴史は、イギリスと流刑囚だけを見ていては全体像がわかりません。

    1788年よりはるか以前から、オーストラリア大陸にはアボリジナルやトレス海峡諸島民の人々が暮らしていました。

    現在のシドニー周辺にも、ガディガル(Gadigal)をはじめとする先住民の社会が存在していました。

    シドニー・コーブへの植民地建設は、彼らの土地にイギリスの恒久的な植民地がつくられたことを意味します。

    その後ヨーロッパ人の入植地が拡大するにつれて、土地の占有、資源をめぐる対立、感染症などが先住民社会に大きな影響を与えました。

    ですから1788年は、「流刑囚がオーストラリアへ到着した年」であると同時に、本格的なイギリス植民地化が始まった年として考える必要があります。

    オーストラリア全土が流刑地だったわけではない

    ここは旅行者にも誤解されやすいところです。

    現在の州ごとに見ると、流刑制度との関係にはかなり違いがあります。

    現在の地域 流刑制度との主な関係
    ニューサウスウェールズ州 1788年から主要な流刑先。シドニーを中心に植民地建設
    タスマニア州 当時のヴァン・ディーメンズ・ランド。多数の流刑囚を受け入れた
    クイーンズランド州 州成立前、ニューサウスウェールズ領内のモートン・ベイに二次処罰地を設置
    西オーストラリア州 1850年から1868年まで流刑囚を受け入れた
    南オーストラリア州 1836年に流刑囚を送らない自由植民地として設立
    ビクトリア州 直接的な流刑植民地として発展した地域ではないが、初期入植や後の「エグザイル」など流刑制度との関わりはある

    「オーストラリア人の祖先はみんな囚人だった」という冗談を耳にすることがありますが、もちろん事実ではありません。

    自由移民も多数渡航し、その後はゴールドラッシュなどを通じて世界各地から移民が流入しました。

    流刑制度はいつ終わった?

    オーストラリアへの流刑制度は、地域によって終了時期が異なります。

    ニューサウスウェールズへの本格的な流刑は1840年に停止。

    ヴァン・ディーメンズ・ランド、現在のタスマニアへの流刑は1853年に終了しました。

    ところが西オーストラリア州では事情が異なります。

    労働力不足を背景に1850年から流刑囚を受け入れ、約1万人の男性流刑囚が送られました。

    そして1868年、流刑船ホーグモント(Hougoumont)がフリーマントルへ到着。

    これがイギリスからオーストラリアへ送られた最後の流刑船となりました。

    1788年のファースト・フリートから数えると、およそ80年間にわたった制度でした。

    11か所の「オーストラリアの囚人遺跡群」

    流刑制度の歴史を伝える重要な11か所の史跡は、2010年に「オーストラリアの囚人遺跡群(Australian Convict Sites)」としてユネスコ世界遺産に登録されました。

    世界遺産構成資産 地域
    キングストンとアーサーズ・ベール歴史地区 ノーフォーク島
    旧総督官邸とドメイン ニューサウスウェールズ州パラマタ
    ハイド・パーク・バラックス シドニー
    オールド・グレート・ノース・ロード ニューサウスウェールズ州
    コカトゥー島囚人遺跡 シドニー
    ブリッケンドンとウールマーズ農場 タスマニア州
    ダーリントン保護観察所 タスマニア州マリア島
    カスケーズ・フィーメール・ファクトリー ホバート
    ポート・アーサー史跡 タスマニア州
    コール・マインズ史跡 タスマニア州
    フリーマントル刑務所 西オーストラリア州

    これらは単なる「昔の刑務所」ではありません。

    流刑、強制労働、植民地開発、刑罰制度の変化などを伝える遺跡として、世界的な価値が認められています。

    旅行中に訪れやすい3つの流刑史跡

    オーストラリア旅行で流刑史を知りたい場合、特に訪れやすいのが次の3か所です。

    施設 旅行者におすすめのポイント
    ハイド・パーク・バラックス シドニーCBD中心部。短時間でも立ち寄りやすい
    ポート・アーサー史跡 流刑植民地の規模や制度を最も実感しやすい
    フリーマントル刑務所 パースからアクセスしやすく、ガイドツアーが充実

    シドニー旅行ならハイド・パーク・バラックス、タスマニアを訪れるならポート・アーサー、西オーストラリア旅行ならフリーマントル刑務所を組み込むと、この歴史がかなり具体的に見えてきます。

    シドニー|ハイド・パーク・バラックス

    ハイド・パーク・バラックスは、シドニーCBDのマッコーリー・ストリート(Macquarie Street)にあります。

    1817~1819年に流刑囚の労働によって建設され、設計したフランシス・グリーンウェイ自身も元流刑囚でした。

    ここでは流刑囚が眠った部屋、ハンモック、所持品、考古学的資料などを通して、シドニーの流刑制度を学ぶことができます。

    2026年9月現在、博物館は入場無料で、通常は毎日午前10時から午後6時まで開館しています。

    さらに日本語を含む複数言語のセルフガイド体験が用意されているため、英語に自信がない旅行者にも訪れやすい施設です。

    サーキュラー・キー、王立植物園、セント・メアリー大聖堂などと組み合わせて徒歩で観光できます。

    タスマニア|ポート・アーサー史跡

    ポート・アーサー史跡(Port Arthur Historic Site)は、ホバートから南東へ車で約1時間30分のタスマン半島にあります。

    広大な敷地に刑務所跡、教会、病院、住宅、庭園など30を超える歴史的建築物や遺構が残っています。

    2026年9月現在、通常は毎日午前9時から午後5時まで開場し、一般入場は大人55豪ドル。

    入場には史跡見学のほか、短いガイド解説や港内クルーズなどが含まれています。

    セルフガイド用の音声体験には日本語も用意されています。

    規模が大きいため、駆け足で1時間だけ見るより、少なくとも半日程度を確保するほうがおすすめです。

    美しい海辺の景色と重い歴史が同居していることも、ポート・アーサーの印象的なところです。

    パース|フリーマントル刑務所

    フリーマントル刑務所は、西オーストラリア州の流刑時代を代表する建物です。

    西オーストラリアへ最初の流刑囚輸送船が到着したのは1850年。

    刑務所は1850年代に流刑囚自身の労働によって建設され、1855年から主要な建物が使用されました。

    その後も刑務所として使われ続け、閉鎖されたのはなんと1991年です。

    2026年9月現在、ゲートハウス、ビジターセンター、囚人資料展示などへの入場は無料。施設は通常午前9時から午後5時まで開いています。

    刑務所内部を詳しく見る場合はガイドツアーへの参加が必要で、「コンビクト・プリズン・ツアー」など複数のコースがあります。

    通常の刑務所内部だけでなく、地下トンネルを探検するツアーもあり、歴史施設としてはかなり体験型です。

    パース中心部からフリーマントルへ日帰りで訪れる旅行者も多いため、フリーマントル・マーケットや港周辺と組み合わせることができます。

    現在のオーストラリアに残る流刑時代の痕跡

    流刑制度が1868年に終わってから150年以上が経っています。

    そのため、現在のオーストラリアを旅行して「囚人植民地だった国」という雰囲気を感じることはほとんどありません。

    それでも注意して見ると、その痕跡は各地に残っています。

    シドニーには流刑囚が建設した道路や建築があり、ブリスベンの都市成立にもモートン・ベイ流刑地の歴史が関係しています。

    タスマニアには特に多くの流刑時代の建築や遺構が残り、西オーストラリア州のフリーマントルには19世紀の巨大な刑務所がほぼそのまま残っています。

    またオーストラリアでは、家系を調べていくと19世紀の流刑囚にたどり着く人も少なくありません。

    かつては流刑囚の祖先がいることを隠す家庭もありましたが、現在では初期オーストラリア史の一部として家族史を調べる人も多くなっています。

    「囚人の国」という一言では語れない歴史

    オーストラリアへの流刑が始まった大きなきっかけは、アメリカ独立によってイギリスが従来の流刑先を失い、国内の刑務所がひっ迫したことでした。

    その結果、1788年にファースト・フリートがシドニー・コーブへ到着し、ニューサウスウェールズ植民地がつくられます。

    そこから約80年間で、16万人を超える流刑囚がオーストラリアの植民地へ送られました。

    しかし彼らは全員が凶悪犯だったわけでも、全員が刑務所の独房で暮らしたわけでもありません。

    建物を造り、道路を敷き、農場で働き、船を造り、刑期を終えるとそのままオーストラリアに定住した人も大勢いました。

    一方で、この歴史はイギリス人と流刑囚だけの物語ではありません。

    流刑植民地の建設は、すでに何万年もの歴史を持っていた先住民の土地に、イギリスの恒久的な植民地を築いていく出発点でもありました。

    流刑制度、植民地建設、先住民の歴史は切り離して考えることができません。

    サーキュラー・キーを歩き、ハイド・パーク・バラックスを訪れ、タスマニアのポート・アーサーやフリーマントル刑務所を見ると、教科書の中の「流刑地」という言葉が、実際の都市や建物とつながってきます。

    オーストラリア旅行で古い建物や街並みを見るとき、この背景を少し知っているだけで、その土地の見え方はかなり変わるはずです。

    よくある質問

    なぜイギリスは囚人をオーストラリアへ送ったのですか?

    それまで主要な流刑先だった北米植民地がアメリカ独立によって利用できなくなり、イギリス国内では刑務所の収容能力がひっ迫していました。新たな流刑先と植民地を必要としていたイギリス政府がニューサウスウェールズを選び、1788年に流刑植民地を設立しました。

    オーストラリアへ何人くらいの流刑囚が送られましたか?

    1788年から1868年までに16万人を超える人々がオーストラリアの植民地へ送られました。資料によって集計方法が異なるため約16万2,000~16万6,000人などの数字が示されています。

    流刑囚は殺人犯などの凶悪犯ばかりでしたか?

    いいえ。強盗や重大犯罪を犯した人もいましたが、衣服、食料、金銭などの窃盗で流刑になった人も数多くいました。当時のイギリスでは現在より厳しい刑罰制度が採用されていました。

    オーストラリア人の祖先はみんな流刑囚なのですか?

    もちろん違います。自由移民も多数移住しており、南オーストラリアのように流刑囚を送らないことを前提に建設された植民地もあります。その後もゴールドラッシュなどを通じて世界各地から移民が増えました。

    ファースト・フリートはどこに到着したのですか?

    1788年1月に最初はボタニー・ベイへ到着しましたが、恒久的な入植地には適さないと判断され、1月26日にポート・ジャクソンのシドニー・コーブへ移りました。現在のサーキュラー・キー周辺です。

    流刑囚は刑期が終わるとイギリスへ帰ったのですか?

    帰国した人もいましたが、多くはオーストラリアに残りました。帰国には高額な船賃が必要だったことに加え、刑期中に仕事や家族など生活基盤ができた人もいました。元流刑囚から農民、職人、商人などとして成功した人もいます。

    オーストラリアへの流刑はいつ終わりましたか?

    地域によって異なります。ニューサウスウェールズでは1840年、現在のタスマニアでは1853年に輸送が終了しました。オーストラリアへの最後の流刑船は1868年に西オーストラリア州フリーマントルへ到着したホーグモントです。

    シドニーで流刑時代の歴史を見られる場所はありますか?

    最も訪れやすいのはハイド・パーク・バラックスです。世界遺産「オーストラリアの囚人遺跡群」のひとつで、シドニーCBDのマッコーリー・ストリートにあります。コカトゥー島にも世界遺産に登録された囚人遺跡があります。

    流刑制度の歴史を見るなら、どこが一番わかりやすいですか?

    シドニーならハイド・パーク・バラックスが手軽です。より大規模な流刑植民地の姿を見たい場合は、タスマニアのポート・アーサー史跡が充実しています。西オーストラリア州ではフリーマントル刑務所でガイドツアーに参加できます。



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  • 【2022年版】オーストラリアの有名な建造物 16選

    【2022年版】オーストラリアの有名な建造物 16選

    海外旅行のひとつの楽しみと言えば、その土地の文化や生活様式を表したお城や宮殿、教会や橋などの建物・建造物を巡ることですよね。

    英国海軍のアーサー・フィリップ大尉率いる最初の植民船団がシドニー湾に上陸した1788年から230年余り。

    歴史の浅いオーストラリアにも観光名所として知られる様々な建造物があります。

    今回はその中からいくつかご紹介したいと思います。

シドニー・オペラハウス

シドニー、またはオーストラリアのシンボル的存在として親しまれているのが、このシドニー・オペラハウスです。

白い貝殻が重なるような、またはヨットの帆が風にはためくかのようなシドニー・オペラハウスの外観は、デザイン・コンテストに応募された233件の中から選ばれたデンマークの建築家、ヨーン・ウツソン氏の設計案が基礎デザインとなっています。

1959年に着工したシドニー・オペラハウスは1963年の完成予定から大幅に遅れ、工事費用も当初予算より大幅に膨れ上がりました。

さらに新たに選出された州政府の面々と協力関係を築けなかったウツソン氏が建築設計者から辞任したため、そのあとを継いだ数人の建築家たちの手により、予定より10年遅れ、1973年に完成しました。

総工費は当初予定された700万ドルの14倍以上にもなる1億200万ドルに達したと言います。

内部には収容人数2679席の「コンサートホール」を始め、大小5つのホール/ シアターと5つのリハーサルスタジオ、4つのレストランと6つのバーがあります。

ちなみに「コンサートホール」内には、世界最大級の機械式パイプオルガン、「グランドオルガン」が鎮座しています。

建物の高さは183m、横幅は120m、面積は1.8ヘクタールとなっています。

建物を象徴する白いシェル状の屋根にはスウェーデン製のタイルが105万6000枚使われています。

シドニー・オペラハウスは2007年に開かれた第31回世界遺産委員会で世界遺産登録されました。

今日ではシドニー・オペラハウスはオーストラリアを代表する観光地になっており、毎年820万人以上の旅行者が訪れています。

また世界で最も忙しい劇場にもなっており、年間363日、2000以上の公演が行われ、150万人以上の観客がコンサートや観劇に訪れています。

シドニー・オペラハウスを観光する場合、様々な館内ツアーに参加することができます。

約1時間の「オペラハウス・ツアー」では、いくつかのホールを巡るほか、歴史や音響技術について学ぶことができます。

同じく約1時間の「アーキテクチャラル(建築学)・ツアー」では、1950年代に設計されたシドニー・オペラハウスの建築学的背景や工学・技術的側面を学ぶことができます。

少人数のグループで巡る約1時間の「ビヨンド・ザ・ステージ・ツアー」では、普段は見ることのできないバックステージ、所謂、舞台裏を訪れたり、隠れたエピソードを聞いたりすることができます。

その他にもお子様向けのツアーがあったり、「テイスト・オブ・ザ・ハウス」と呼ばれる館内ツアーとオペラハウスのレストランでのお食事がセットになったツアーも用意されています。

また現在、シドニー・オペラハウスでは夜間にプロジェクション・マッピングが行われています。

これはシドニー・オペラハウスの白い屋根を利用した、プロジェクターによる映像投影です。

シドニー湾の夜景の中に浮かび上がる幻想的な映像は、観光客のみならず国内外の多くの人々から高い人気を博しています。

建造物名

シドニー・オペラハウス (Sydney Opera House)

場所

Bennelong Point, Sydney NSW 2000(地図)

Webページ https://www.sydneyoperahouse.com/

シドニー・ハーバー・ブリッジ

オペラハウスと並び、シドニーの顔とも言えるのがこのシドニー・ハーバー・ブリッジです。

オペラハウスを望むシドニー湾に建ち、シドニーと北部のノースシドニーを結ぶ交通の要として機能しています。

「コートハンガー(コート掛け)」というニックネームは、その美しいアーチ型の曲線に由来しています。

ニューサウルウェールズ州公共事業局のジョン・ブラッドフィールド氏の監督のもと、1923年に着工、1932年に完成しました。

ブラッドフィールド氏は1914年に「シドニー・ハーバーブリッジと大都市鉄道建設プロジェクト」の主任技官に任命されました。

同年、勃発した第一次世界大戦の終戦後、ブラッドフィールド氏は世界を巡り、プロジェクトの入札業者を探しました。

また、幾多ある橋の形状から、アーチ型を採用することとし、公共事業局にてアメリカはニューヨークのヘル・ゲート・ブリッジをモデルとして基礎デザインを作成しました。

9年という歳月と625万ドルという莫大な費用を費やし、シドニー・ハーバー・ブリッジは完成しました。

503mという全長は、アーチ型の橋としては世界で8番目の長さとなります。

また、水面から134mという高さは鉄製アーチ型の橋としては世界最高となります。

現在は8車線のハイウェイ、シティレールの鉄道線路、自転車専用道、そして歩道が設置されており、世界一、車線が多い橋ともなっています。

シドニー・ハーバー・ブリッジは緩衝地域として、シドニー・オペラハウスと共に2007年に世界遺産登録されました。

観光としては、王立植物園内にある岬のミセス・マッコーリーズ・ポイントから、オペラハウスの全景と共に写真に収める、というのが定番となっています。

また、2006年に開業したブリッジクライム・シドニーでは、ハーバーブリッジのアーチ型の鉄橋の上を登ることができます。

昼間、トワイライト、夜間、と時間によって異なるクライムが楽しめ、中でも夕日をバックにシドニー・ハーバーブリッジの上からシドニー湾を見下ろせるトワイライトは人気のコースとなっています。

建造物名

シドニー・ハーバー・ブリッジ (Sydney Harbour Bridge)

場所

Sydney Harbour Bridge, Sydney NSW 2000(地図)

ブリッジクライムWebページ https://www.bridgeclimb.com/

クイーン・ビクトリア・ビルディング (QVB)

QVBの愛称で親しまれているこの建物は、1898年に着工、1898年に完成しました。

長さが190m、幅が30mあり、シドニー市役所(Sydney Town Hall)に隣接しています。

デザインはスコットランドからの移民で建築士のジョージ・マクラエ氏によるもので、もともとゴシック様式、ルネッサンス様式、クイーン・アン様式、ロマネスク様式と、様式の異なる4つのデザインが描かれました。

シドニー市役所により、最終的にはロマネスク・リバイバル様式が採用されています。

元は市場として想定されたこの建物は1898年のオープン当初、仕立て屋、反物屋、ヘアドレッサー、花屋、コーヒーショップから展示場、コンサートホールが立ち並びました。

しかし200もの店舗スペースが予定されていたにも関わらず、オープン当初はわずか47店舗しか賃貸契約がありませんでした。

1905年までに20店舗ほど増えましたが、やはり当初の予定には届かず、1910年に市場はシドニー市南部のヘイマーケット(現チャイナタウン内)に移設されました。

その後、改装工事を重ね、シドニー市図書館や行政施設として利用されていた期間もあります。

それでも建設費用との採算が取れずにいたこの建物は常に取り壊しの危機にさらされてきました。

1967年になり、オーストラリア・ナショナルトラスト協会によってやっとその歴史的資産価値が見直されました。

1984年から2年の月日と8600万ドルという費用が掛けられ、マレーシア企業によりQVBはショッピングセンターへ生まれ変わりました。

3階建ての建物の内部には、ブティックやハイブランドの洋服店、宝飾店などが並ぶようになります。

建物の運用は軌道に乗り、その後20年あまり買い物客を魅了し続けます。

さらに2008年より4800万ドルを掛けた改装工事によりエスカレーターが設置され、店舗スペースの装いも一新し、現在に至ります。

建造物名

クイーン・ビクトリア・ビルディング (Queen Victoria Building/ QVB)

場所

455 George Street, Sydney NSW 2000 (地図)

Webページ https://www.qvb.com.au/

セント・メアリー大聖堂

シドニーの街の中心地、ハイドパークの北東に隣接する、二つの尖塔を持つ巨大な教会がこのセント・メアリー大聖堂です。

最初の基礎工事が始まったのは1821年10月でした。

ジェームス・デンプシー氏により建設された教会は当初、十字の形をしたシンプルなゴシック建築でした。

1835年にはジョン・ポールディング氏がオーストラリアで初のローマカトリック教会の大司教になっています。

1851年にオーガスタス・ウェルビィ・プギン氏のデザインにより建物は改装されましたが、1865年の火災により焼失してしまいます。

現在のゴシック・リバイバル様式の大聖堂は1868年にポールディング大司教により最初の礎石が置かれたものです。

その後、63年間という紆余曲折の時を経て、1928年にセント・メアリー大聖堂は完成しました。

現在、ハイドパークから見える建物側面のゴシック様式の窓は、尖ったアーチ型と網目状の模様が特徴です。

屋根の輪郭は穴の開いた欄干、高窓の上部の装飾的な切妻飾り、フランス流の小さな屋根窓をいくつも施した角度の急なスレートの屋根でまとめられています。

ハイドパークに面した翼廊は、多くのフランスの聖堂で使われているように一般の出入り口になっており、ドアに豪華な装飾が施されています。

鐘を讃える尖塔はずんぐりした形ながらもその上にそびえる、かぎ針編みを施した円錐状の先端部分により、上品な印象を与えています。

尖塔の高さは74.6mあり、セント・メアリー大聖堂をオーストラリアで4番目に背の高い教会としています。

建物の内部は黄金色の砂岩でできており、その高い天井を支える巨大なアーチ型の柱の列が重厚で荘厳な印象を与えています。

正面、主祭壇の奥には色鮮やかで華やかな巨大ステンドグラスがあり、思わず目を奪われます。

このステンドグラスには聖母マリアの戴冠のストーリーが描かれています。

この他にも「ステーションズ・オブ・ザ・クロス」と題された油絵、聖母マリア像、ジョージ・ワシントン・ランバートによる「名もなき兵士」の彫像など貴重な美術品が数点、奉納されています。

建造物名

セント・メアリー大聖堂(St. Mary Cathedral)

場所

St. Mary Road, Sydney NSW 2000 (地図)

Webページ https://www.stmaryscathedral.org.au//

フリンダース・ストリート駅

メルボルンを象徴する建物と言えば、このフリンダース・ストリート駅の黄色い建物ですね。

メトロ・トレイン・メルボルンの近郊列車の中央駅であるこのフリンダース・ストリート駅は、1854年9月に、オーストラリア最初の鉄道駅として生まれました。

「メルボルンの起点」と呼ばれた当時の駅は単線で、30mほどのプラットホームがひとつあるだけでした。

1880年代に入ると駅は手狭となり、中央駅として生まれ変わるべく計画が進められていきます。

1900年になり、メインエントランスの上部のドーム型の屋根を讃え、エリザベス・ストリートの入り口に時計台を設けたフランス・ルネッサンス様式の、「グリーン・ライト」と名付けられた、鉄道会社職員たちのファウセット&アシュワースによるデザインがコンテストの一等賞を射止めました。

現在の駅舎は1909年に建てられたものになります。

蒸気機関車の時代が終焉を迎え、電車が初めてフリンダース・ストリート駅より出発したのが1919年でした。

1923年には一日2300本もの列車が乗り入れ、30万人もの人々が利用したこの駅は、世界で一番忙しい駅だと考えられていました。

1956年のメルボルン・オリンピックを控え、1954年には地下鉄もフリンダース・ストリート駅に乗り入れるようになりました。

その後も幾度となく改装と、度重なる金銭的挫折を繰り返し、今日に至ります。

現在のフリンダース・ストリート駅は1910年代の色合いを再現するため2017年に塗り替えられたものになります。

メインエントランス上部の時計は、1860年代には次の列車の出発時間を示すための時計でした。

建造物名

フリンダース・ストリート駅(Flinders Street Railway Station)

場所

Flinders Street, Melbourne VIC 3000 (地図)

Webページ https://www.flindersstreetstation.com.au/

ビクトリア州立図書館

八角形を形どり放射状に並んだリーディングデスク、背の高い真っ白なドーム型の天井、壁にぎっしりと並んだ蔵書、そのスケール感に似つかわしくない静寂。

私たちに日本人にはまるでアニメの世界のような非現実的な空間。

「ラ・トローブ」と名付けられたそんなリーディングルームを備えた巨大な図書館が、このビクトリア州立図書館です。

メルボルンの公立図書館として1854年に建てられたこの図書館は、2018年にはオーストラリアで最も忙しい図書館、世界では4番目に来館者の多かった図書館となりました。

200万冊の蔵書、35万点もの写真や原稿、地図、新聞などが収納されています。

現在の建物は1990年から2004年まで約2億ドルを掛けて改修されたものです。

建物を象徴するドーム型リーディングルームは1913年にオープンしたものです。

ノーマン・G・ピーブルス氏によりデザインされたこの八角形のスペースは100万冊以上の蔵書と600人もの閲覧者を収容することができます。

1999年より改装に入り、2003年に「ラ・トローブ・リーディングルーム」と名前を改められました。

この図書館のスワンソン・ストリート側の正面玄関前の芝生はメルボルン市民憩いの場となっており、お昼時にはピクニックランチを楽しむ会社員や学生で賑わいます。

歴史的価値の高い数々の古書や1800年代や1900年代の地図があるだけでなく、オーストラリアのアイコンのひとつともなっている無法者「ネッド・ケリー」が死の直前に警官隊と打ち合った際に身に付けていたお手製の鎧も展示されています。

建造物名

ビクトリア州立図書館(State Library Victoria)

場所

328 Swanston Street, Melbourne VIC 3000 (地図)

Webページ https://www.slv.vic.gov.au/

王立展示館

国会議事堂を思わせる荘厳な佇まい。花々が咲き乱れ、緑濃い庭園を誇るこの建物が王立展示館(または王立博覧会ビル)です。

世界文化遺産に登録されているこの王立展示館は、1851年から1915年の間に行われた50以上もの国際博覧会のひとつとして、1880年に建てられました。

26ヘクタールもの広大な土地に、150メートルという横幅で建てられています。

デザインは、メルボルン市庁舎やビクトリア州立図書館も手掛けたジョセフ・リード氏によるものです。

レンガ、木材、金属、スレートにより建てられており、ビザンチン、ロマネスク、ロンバルディック、イタリアン・ルネッサンスの各様式を取り入れており、オーストラリア最初の大陸ヨーロッパ風建築とも言われています。

1880年から1881年にはメルボルン国際博覧会を招致し、1888年にはヨーロッパ人のオーストラリア入植100周年を記念した、百周年国際博覧会の会場にもなりました。

1901年5月9日には第一回オーストラリア連邦議会の開会式も同建物内で開かれました。

その後、連邦議会はビクトリア州議事堂へ移動し、ビクトリア州議会がその後、26年間に渡りこの王立展示館で開かれました。

その後、幾多の焼失や取り壊しにより建物の一部を失いましたが、「グレート・ホール」と呼ばれるメインの建物は損壊を免れています。

1851年からの国際博覧会ムーブメント中に建てられた中で最も保存状態の良い建物として、この王立展示会は2004年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。

直近では、新型コロナウイルスに対するメルボルン市の大規模ワクチン接種センターとして利用されています。

建造物名

王立展示館(または王立博覧会ビル/ Royal Exhibition Building)

場所

9 Nicholson Street, Melbourne VIC 3000 (地図)

Webページ https://museumsvictoria.com.au/reb/

セント・パトリック大聖堂

金色の尖塔と濃灰色の建屋でメルボルン中心地に存在感を誇る巨大な教会がこのセント・パトリック大聖堂です。

1848年に聖アウグスチノ修道会が修道士であったジェームス・グールド氏をメルボルンで最初の司教に指名しました。

オーストラリアでは4番目の司教となったジェームス・グールド氏は、イースタン・ヒル地域に5エーカーの土地取得を申請し、1851年、メルボルン創立からわずか16年にしてローマ・カトリック教会の建設が認可されました。

当時、メルボルンのカトリック・コミュニティーの大勢はアイルランド移民に占められていたので、教会はアイルランドの守護聖人である聖パトリキウスにちなんでセント・パトリック大聖堂と命名されました。

メルボルンの教会建築の第一人者ウイリアム・ウォーデル氏により設計されたこの教会は、当時のゴールドラッシュによる深刻な労働力不足に見舞われたため完成が遅れに遅れ、90年近い歳月を経て1939年にやっと完成しました。

1986年には教皇ヨハネ・パウロ2世が公式訪問しています。

横幅こそ103.6メートルとシドニーのセント・メアリー大聖堂に最長の座を譲りましたが、尖塔の高さ105メートルとオーストラリアで最も背の高い教会、そしてオーストラリアで最も大きな教会、の座を誇っています。

夜は外壁がライトアップされるので、さらに神秘的な佇まいを楽しむことができます。

1870年代には聖堂内にパイプオルガンが作り始められ、1880年に完成しています。

現在のパイプオルガンは1962年から1964年に修復されたものとなっており、教会の聖歌隊とともに今もその美しい音色を来訪者へ届けています。

大聖堂の鐘のうち8つはゴールド司教が訪欧の際に購入したもので、8つ合計で35トンもの重さがあります。

1988年にはこれに9つめの鐘が追加され、現在に至ります。

建造物名

セント・パトリック大聖堂(St. Patrick’s Cathedral)

場所

1 Cathedral Pl., East Melbourne VIC 3002 (地図)

Webページ https://melbournecatholic.org/about/st-patricks-cathedral

クックス・コテージ(キャプテン・クックの生家)

メルボルン、フィッツロイ庭園の中に建つレンガ造りのこじんまりとした家、それがキャプテン・クックの生家、クックス・コテージです。

ジェームス・クックは言わずと知れた、1770年にシドニーのボタニー湾に初めて上陸し、オーストラリア大陸の領有を宣言したイギリスの海軍士官にして海洋探検家です。

ジェームス・クックの生家は1755年に、クックの両親により英国イングランドのノースヨークシャー州グレート・アイトンに建てられたもので、1934年10月にメルボルン入植100周年を記念し、イングランドよりフィッツロイ庭園内に移されました。

移動の際にはレンガひとつひとつにまで解体され、253箱と40樽に梱包され海を渡りました。

この生家はオーナーにより売りに出されていましたが、オーストラリア人のラッセル・グリムウェイド氏により落札。

ビジネスマンであり慈善家でもあったグリムウェイド氏はこの家をビクトリア州の人々へと寄贈しました。

1978年にはさらなる修復が行われ、家の周囲にも英国風庭園が造られました。

内部の家具は当時のイングランドの生活を再現して展示されています。

建造物名

クックス・コテージ(キャンプテン・クックの生家/ Cook’s Cottage)

場所

Fitzroy Gardens, Wellington Parade, East Melbourne VIC 3002 (地図)

Webページ http://www.fitzroygardens.com/Cooks_Cottage_History.htm



キャンベラ国会議事堂

オーストラリアの連邦議会が開かれるのがキャンベラにあるこの国会議事堂です。

現在の国会議事堂はキャピタル・ヒルに建てられており、1988年5月9日にオープンしました。

当時の金額で11億ドルもの巨額を投じて建設されました。

川をせき止め湖を作り出したり、機能的に道路を配置したりと計画的に設計された都市・キャンベラの、放射線状に伸びる道路の中心にこの国会議事堂が位置しています。

もともと連邦議会は1927年までメルボルンにて開かれていました。

1927年から1988年までは現在の国会議事堂の手前に建っている白い建物、旧議事堂にて議会が開かれていました。

現国会議事堂には4700もの部屋があり、議事堂の大部分は一般に公開されています(現在はコロナ渦により一時休止中)。

メインのホールには大理石の階段があり、グレート・ホールと呼ばれる大議事室に続いています。

大議事室には大きなタペストリーが掲げられており、下院の会議場は緑をテーマにし、上院の会議場は赤をテーマにして装飾されています。

ふたつの会議場の間はメンバーズ・ホールとなっており、こちらは一般公開はされていません。

大臣棟にはオーストラリア首相のオフィスや他の大臣の執務室があります。

建造物名

国会議事堂(Parliament House)

場所

Parliament Drive, Canberra ACT 2600 (地図)

Webページ https://www.aph.gov.au/

ブリスベン・シティホール

ブリスベンのランドマークとなる大きな時計台と神殿を思わせる花崗岩でできたベージュ色の豪奢な建物。

それがブリスベン・シティホールです。

ローマのパンテオン神殿を模したとされる講堂といくつかの小さなレセプションルームを擁しています。

講堂には大きな円形のホールがあり、1600人もの人を収容することができます。

この円形のホールの上部には青銅製のドームがあり、これは南半球最大のものとなっています。

1914年に当時のブリスベン市長、チャールズ・モファット・ジェンキンソン氏により現在のキング・ジョージ・スクエアがその建設地に選ばれ、1917年に着工しました。

1930年に公式にオープンし、1980年代に一度、そして2010年から2013年までの二度に渡る改修工事を経て現在に至ります。

イタリア・ルネッサンス様式のこの建物には64メートルの高さを誇る時計台があり、四角柱の尖塔の4面すべてに直径4.8メートルの時計が埋め込まれています。

短針の長さは1.7メートル、長針の長さは3メートルあり、そのウェストミンスター式チャイムが15分ごとに時を知らせてくれます。

キング・ジョージ・スクエアの正面玄関ではキング・ジョージ5世と2頭のライオンの銅像が出迎えてくれます。

建造物名

ブリスベン・シティホール(Brisbane City Hall)

場所

64 Adelaide Street, Brisbane QLD 4000 (地図)

Webページ https://www.facebook.com/EPICUREatBrisbaneCityHall/

Q1(キューワン)

ゴールドコースト、サーファーズパラダイスの青空に突き抜けるようにそびえ立つ青銅色の円柱、それがサーファーズパラダイスのランドマーク、Q1(キューワン)です。

完成した2005年11月からその後2011年まで、世界で最も背の高い居住棟となっていました。

2021年現在も世界で11番目に背の高い居住ビルディングとなっています。

尖塔も入れた高さが322.5メートル、屋根までの高さが245メートルとなっており、77階と78階が展望デッキ「スカイポイント」となっています。

スカイポイントはサーファーズパラダイスのビーチから230メートルの高さに位置しており、一度に400名が収容可能となっています。

屋根までの高さで比較した場合、オーストラリアにはメルボルンの「オーストラリア108」(屋根の高さ316.7メートル)、「ユーレカタワー」(屋根の高さ297.3メートル)などがありますが、世界基準は尖塔までを含めた高さで比較することとなっていますので、このQ1が現在もオーストラリアで最も背の高い建物となっています。

その特徴的な外見は、シドニーオリンピックのトーチとオペラハウスからインスパイアされてデザインされています。

またその名称「Q1」は1920年代に活躍したスカル(ボート競技)のオリンピックチームの愛称、Q1から来ています。

Q1はコンドミニアム型の宿泊施設として「Q1リゾート&スパ」の名称で営業しています。

リゾートは2つのラグーンプール、ジム、スパ、ミニシアターを備えており、宿泊のルームカテゴリーは1ベッドルーム、2ベッドルーム、3ベッドルーム、4ベッドルームのアパートメントおよびペントハウスに分かれています。

展望デッキ「スカイポイント」では、展望デッキへの観光の他、スカイポイント・ビストロ + バーでお食事を楽しんだり、命綱を付けて展望デッキの外側を歩く「スカイポイント・クライム」を楽しむことができます。

建造物名

キューワン(Q1)

場所

9 Hamilton Avenue, Surfers Paradise QLD 4217 (地図)

Webページ https://www.q1.com.au/

フリーマントル刑務所

パース近郊のおしゃれな港町・フリーマントルには観光スポットとしては珍しい建物があります。

それがこのフリーマントル刑務所です。

フリーマントル刑務所は、シドニーのハイド・パーク・バラックス、タスマニア州のポートアーサーら他の11の施設と共に「オーストラリアの囚人遺跡群」として2010年にユネスコの世界文化遺産に登録されています。

フリーマントル刑務所は1851年に、イギリス本国から流刑に処せられた囚人たちのための刑務所として着工されました。

完成したのは1859年で、当時は「石灰岩でできたロッジ」=ライムストーン・ロッジと呼ばれていました。

1868年にイギリス本国から西オーストラリアへの流刑処置が廃止されると徐々に流刑囚人の数は減り、1886年には刑務所は西オーストラリア植民地政府の管轄となって西オーストラリアの囚人が収容されるようになりました。

第一次世界大戦から第二次世界大戦の間はオーストラリア陸軍によりフリーマントル刑務所の一部が利用され、1939年から1946年の間は陸軍の軍事刑務所としても利用されました。

1988年には刑務所内の室温が高温になることを巡り「フリーマントル刑務所暴動」が起き、これを機に1991年11月、フリーマントル刑務所は閉鎖となりました。

6ヘクタールの敷地には今も刑務所の他、守衛詰所、防護壁、コテージ、トンネル、囚人たちが残した芸術作品が残されています。

建造物名

フリーマントル刑務所(Fremantle Prison)

場所

1 The Terrace, Fremantle WA 6160 (地図)

Webページ https://fremantleprison.com.au/

フレッシュウォーター駅

サトウキビ畑に囲まれたクラシックな駅舎、それがフレッシュウォーター駅です。

フレッシュウォーター駅はケアンズ郊外の世界自然遺産の熱帯雨林のジャングルを駆け抜けるキュランダ高原列車の駅のひとつです。

キュランダ高原列車はテーブルランド鉄道線の一部、ケアンズ・キュランダ鉄道線を走ります。

テーブルランド鉄道線は内陸のハーバートン近郊の鉱山とケアンズ港を結ぶ線路として建設されました。

フレッシュウォーター地域を含むケアンズからの最初の8マイルは1887年10月に開業しました。

開業前の1887年3月、そして開業後の1888年1月には大雨による2度の洪水に見舞われています。

こうした苦難を乗り越え1887年から4年の歳月をかけてキュランダ高原列車を建設した開拓者たちに敬意を表し、1984年にこのフレッシュウォーター駅が建てられました。

現在は空港やケアンズ市内のホテルから観光客を乗せてくるツアーバスからキュランダ鉄道に乗り換える中継地として機能しており、「フレッシュウォーター・コネクション」とも呼ばれています。

また、駅舎にはキュランダ高原列車の歴史を紹介する展示室があるほか、85年前の客車を利用したレストラン、「レストラン・パビリオン」があります。

レストラン・パビリオンでは昔ながらのほの明るい電灯と優しい冷暖房に迎えられて、キュランダ観光前に朝食を楽しむことができます。

2018年には改装工事も行われプラットフォームが延長されたほか、駐車場の拡張、バリアフリー施設への設備追加などが行われました。

建造物名

フレッシュウォーター駅(Freshwater Railway Station)

場所

Kamerunga Road, Barron QLD 4878 (地図)

Webページ https://www.ksr.com.au/KSRJapan/Pages/Freshwater.aspx

チラゴー精錬所

ケアンズから西へ205km。

赤土とブッシュに囲まれたレンガ造りの煙突。

1992年にクイーンズランド州より歴史的建造物として遺産指定されたチラゴー精錬所は現在、建物の内部に入ることはできず、駐車場から展望台を繋ぐ遊歩道からその赤土にそびえ建つ煙突と静かに佇む精錬所の全景を見ることができます。

チラゴー地区は1887年に銀の発掘により初めて注目を集めました。

マリーバ地区から150kmもの距離を走る鉄道が1900年に完成すると、大規模な鉱物原料の運び込みとそこから精錬された商品の出荷が可能になったためこの精錬所の建設が始まりました。

その後、1908年には労働者の賃金値上げおよび銅の価格下落、1909年には鉛の価格下落、さらに1911年には当時、鉱物供給を頼っていたイーサーリッジとの間の鉄道の橋が大雨で流されチラゴー精錬所が操業停止に追い込まれたりと数々の不運に見舞われました。

しかしながら1920年には第一次世界大戦により金属や銅の価格が上がり、その施設価値を見直したクイーンズランド州政府により資金援助を受けるに至ります。

建設当初に計画された精錬能力を活かしきることなく、資金援助を受けながら雇用確保のために操業を続けていたチラゴー精錬所はそれでも1932年には創業以来、最大量の銅の生産を達成しました。

ところが今度は第二次世界大戦が始まるとオーストラリア政府は国内の鉱物生産体制の効率化、高収益化の見直しを迫られ、毎年赤字を計上し生産能力の4分の1程度しか稼働しておらず千キロも離れた鉱山から鉱物材料を運び入れる必要のあった“採算の合わない“チラゴー精錬所は事業整理の対象となり、その40年あまりの歴史に幕を閉じました。

この40年の間にチラゴー精錬所は125万トンの鉱物を精錬し、6万トンの銅、5万トンの鉛、184トンの銀、5.1トンの金を精製しました。

建造物名

チラゴー精錬所跡(Chillagoe Smelters)

場所

Chillagoe QLD 4871 (地図)

Webページ https://parks.des.qld.gov.au/parks/chillagoe-caves/about/chillagoe-smelters

ポート・アーサー

ポート・アーサーはタスマニア州の州都ホバートから約60km離れたこじんまりとした街です。

かつてはここにオーストラリア国内最大の流刑植民地がありました。

タスマニア島へのヨーロッパ人の入植は1803年に始まりましたが、当初からヨーロッパ人と先住民族アボリジニとの衝突がありました。

ヨーロッパ系白人の人口増加に反比例してアボリジニの人口は激減し、さらに1826年、副総督であったジョージ・アーサーは武力でアボリジニを追い払う権利を白人に与え、軍隊の武力をもってこれをサポートすることを宣言しました。

1830年にはアボリジニの人々をタスマン半島へ追いやり捕獲するという作戦が展開されました。

そんな中、ポート・アーサーは1830年に木場として開拓され始め、やがて造船、靴製造などが展開されます。

1833年には流刑植民地の建設が始まり、イギリス人やアイルランド人にとって最も過酷な流刑地と呼ばれるようになりました。

中でも巨木を切り出し製材する業務に従事させられるのは重労働でした。

タスマン半島はイーグルホーク・ネックと呼ばれる地峡でタスマニア本島と繋がっており、ここに哨戒灯と哨戒犬を配備した脱走監視システムはポート・アーサーを最も厳格なセキュリティ体制の流刑植民地にしていました。

1840年代半ばになると流刑囚人の数が減っていき、1877年にはポート・アーサーの刑務所も閉鎖されました。

その後、タスマン半島の自然の美しさが見直され、1880年に刑務所施設は観光施設へ生まれ変わりました。

1892年には観光客のために港も整備されました。

タスマン半島の土地は農場や果樹園へと生まれ変わり、農業がタスマン半島の基幹産業として成長します。

20世紀初頭までにタスマン半島には8つの学校も設立されました。

1987年にはポート・アーサー歴史史跡管理局が設立されました。

ポート・アーサーは、シドニーのハイド・パーク・バラックス、西オーストラリア州のフリーマントル刑務所ら他の11の施設と共に「オーストラリアの囚人遺跡群」として2010年にユネスコの世界文化遺産に登録されています。

建造物名

ポート・アーサー(Port Arthur)

場所

Port Arthur TAS 7182 (地図)

Webページ https://portarthur.org.au/



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